忘れたくない言葉
数日前に自殺未遂をしました。
突発的で、自分でもなんであんなことをしたのかよくわかりません。
ドアノブに紐を括って全体重を首にかけてみました。
走馬灯なんか見えなくて、息はできるのに音が徐々に消えていって、視界がだんだん暗くなっていって、末端から感覚が無くなっていって、血流が止まっていることを感じました。
でも、息は普通にできるなんて不思議だなと思っている間に、ドアノブから紐が外れて血流は元に戻りました。
3回くらい同じことをやったけど、結果は同じで走馬灯は見えず、だからつまり、今私は生きています。
学習能力の高い私は、そんな方法ではよほど運が良くない限り死ぬことはできないのだと学び、それからは死んでしまいたい衝動に駆られた時は自分を傷付けることで気を紛らわせるようにしています。
だから、私の太腿はいつも赤い筋が入っています。
こんなことを気安くペラペラと話してはいけないのかもしれません。
ましてや不特定多数が見れるところに書いていいものではないのかもしれません。
でも、私は書きます。
とある、私のことをよく知っている人に全てを打ち明けたときに、素敵な言葉をいただいたからです。
『死んでしまいたいほどの強い欲求があるなら、それを違う方向に向けたとき、爆発的な何かが生まれるかもしれないね。今に名を残す作家のように。死んでしまうことで言葉にできない感情を表現するんじゃなくて、受け止めきれない想いをそのまま文章にしてみたらいいじゃないか。死ぬのはそれからでいい。太宰治だって自殺したんだから。』
この言葉を肯定的に受け取る人も、否定的に受け取る人もいるかと思います。
私は肯定的に受け止めています。
だから今、文章を書いています。
その人は私の書いた文章を読んだことがありません。ただ、私が文章を書くことが好きだという事実だけを知っています。
そしてその人はおそらく、私の書いた文章をめんどくさがって読まないと思います。
私も、その人に自分の書いた文章を見せることはないと思います。
でも、その人の言葉があるから私は文章を書いてみようと思います。
やっぱり衝動は簡単に抑えられるものではなくて、どうしようもなく死にたくなる時があります。
そしてそんな時は決まって、頭の中で声が聞こえてくるのです。自分の声なのに自分じゃない言葉が響いてくるのです。その声に耐えられなくなって死のうとするのです。
きっとそれが、受け止めきれない想いで、私が書くべき文章なんだと思います。
正気を取り戻したときには血だらけになっていることもあって、そのときに聞こえた声を覚えていないときの方が多いくらいです。
だから、今はまだその声を文章にすることはできません。
でも、その声を文章にすることができたとき、受け止めきれない想いが誰かを救う文章になると信じて、生きてみようと思ったりするのです。
私の中には私じゃない誰かがいます。
その人が暴れたときに、運が良ければ文章になって、運が悪ければ血だらけになります。
これは高校生の時からずっと変わりません。
それを隠して生きていました。でも、その言葉を聞いてひたすらに隠す必要もないのかもしれないと思いました。
私は多分、誰かと同じとか、一般的な考えとか、俗に言う当たり前から少し外れた価値観で自分自身と命を弄んでいるのかもしれないと思います。
だから、文章を書き続けられるのだと思います。書くことで当たり前からズレた自分が当たり前に存在できる場所を作っているのだと思います。
言葉を紡ぐことに才能なんかないと思います。少なくとも私には才能はなくて、受け止めきれないものをなんとかするために書いているだけなのです。
だからこそ、生きていこうと思うのです。
p.s.もちろんしっかり病院に行って、迂闊なこうど行動を取らないように治療もしています。社会復帰に向けた訓練もします。