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幸せについて

幸せになりたい、といつも思う。
今も十分幸せかも知れないし、人間の欲は際限無いのも知っているがもう少しばかり望んでいたい。
じゃあ幸せってなんだろうねと少しばかり考えてみた。

僕が考えるに幸せって2種類あって、与える側の幸せと貰える側の幸せ。
堅苦しい言葉でいうと能動的幸福受動的幸福みたいな所だろうか。

例えばあなたが電車でお年寄りに席を譲ってありがとうと微笑まれた時。
勇気を出して声をかけて良い結果になったあなた、これは能動的幸福だろう。
親切心を受け席に座れ思わぬ嬉しい思いをしたお年寄り、これは受動的幸福だと思う。
近頃の若者も捨てたもんじゃないなと思った中年の方もいるかも知れない。
スマホを弄って知らぬ存ぜぬを決め込むも居心地が悪くなった周りの群衆もいたかも知れないけど。

実際色んな人の心が動いていると思う。それはあなたが自ら行動を起こし、いくつかの人が幸せを得た素晴らしい瞬間だ。

能動的になった事が全ての始まりだね。チャンスがあればどんどん幸せになっていきたいものだ。
幸せになれるチャンスって結構日常に転がってるものだ。ホトトギスの鳴き声に耳を澄ませてみたり、通勤時に綺麗な雲を見つけてみたり。

小さい頃、お年寄りに優しくしましょう、挨拶をしましょう、みたいな事を言われたことが誰しもあると思う。最近その言葉を思い出して、あれってお年寄りは敬うべきものであるし、優しく、挨拶をするだけで幸せをいくつか産むものなんだなと感心した。
教育の意味、本質を考えるのは楽しいね。

では今度は受動的の話。
例えばアイドルを推す。ゲームのキャラを推す。美味しいご飯を食べるとかもこっち側だね。
これらから得られる幸せはほぼ全部受動的に分類されるだろう。
だから人々はみな偶像を糧とし信じるのだ。
何もしなくとも見ているだけで幸せになれる。
対価は支払うかも知れないけど、対価を支払えば確実に幸せが約束されているから。

ただ、受動的幸福ばかりをずっと追い求めるって実は辛いんじゃ無いのかと思っている。
アイドルが解散したら?ゲームがサ終したら?絶望の淵に立つだろう。
それでも今まで幸せを与えてくれてありがとうと糧にして生きていける程の幸せの強さとなると中々難しいんじゃないのかと思う。
そんな幸せがあれば是非布教して貰いたい。
僕は無宗教だし宗教勧誘だけはお断りしておくよ。
ホストやキャバ嬢に狂っちゃったりするのって受動的幸福を金で買えると知っちゃって、偽りの幸せの沼にハマっちゃうからなんだろうと思うし。

そう考えると受動的を待ってるばかりでは「幸せになりたい」の幸せを得れる事って少ない様に思う。
基本的に棚からぼた餅は落ちてこないのだ。棚を眺めているより、もち米を作る勉強をした方が早いのである。もしもち米を作るのが苦手なら買えば良いしあなたが出来る何かぼた餅に変わる何かを作れば良い。これが仕事というものだろうか?社会貢献というものなんだろうか?

あと最近僕のnoteを読んで気づきがあった、ありがとうと感想を頂いた事があった。
とても嬉しかった。僕の文が誰かの心を動かした証だったから。
感想を頂いたのは受動的かも知れないがnoteを書いた事が発端なのでこれは能動的幸福に近いと言って差し支えないだろう。本当にこの上なく嬉しいのだ。自ら動いて良かったとも思う。

僕は運良くこの考えに辿り着けたけどこの考えを持っていないと労働はいささか辛いものだと思う。お金だけを対価として得るには余りに厳しい。幸せを与えて幸せを得て、得たお金を少し推しやご飯に貢いで更に幸せを得て、明日も頑張ろうと前向きに生きていく。そんな幸せなサイクルがないと長い人生なんかやってらんないのだろう。
この幸せのサイクルを回すことで「幸せになりたい」の幸せに近づけるとも思った。

幸せになりたいね。

じゃあどうすればいいか、何となくわかったかな。

幸せになろうね。

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