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もしも災害が天罰だったなら《 3.11後からの日本を案ず(25)》

── 前回「現代日本人の怒り方について」の続きです

どうしてわたしだけが…

はじめに、前回の『現代日本人の怒り方について』をまとめると、比較によって不平を持つならば、なにかの不都合な事象が起こると、つまりは「“どうしてわたしだけが”こんな目にあうのか?」と思えてしまう心理を、現代日本人はもっているということになるのではないでしょうか。実際は“無難”に済んだのかもしれないという謂わば“悪くない”比較的にベターな現実に対して、他者、つまりはなにも起こらなかった無縁の人と比較してしまい、そこに常に勝手な“ベスト”な世界を見て、自分と比べてしまう。

即ち、そのような思考自体が他者や社会評価の基準に照らし合わせているかのように見えて、実は『自分のこと』しか見ていないという心理だと感じます。謂わばそういった“利己的”とも感じる世界への見方こそが、常に比較により自分を世界から分離させてしまう心理の元凶なのではないでしょうか。単純すぎますが、もしも“利他性”に少しでもその心理が傾いたなら、世界の見え方は大きく変わるのではないでしょうか。

昨今のSNSなどの炎上例や他者への過剰な干渉による私刑的な社会にある『持てる者と持たざる者』のような認識、まるで持てる者は持たざる者から責められて“当然”かのような風潮。例えば、子供のいない人はいる人を責めても許されるが、その逆は許されない。ベビーカーを持つ人を駅の階段で背中を押した者が「わたしが子供がいないから憎かった」などの供述をするなどの例も現実にある現在です。勝手な比較により、また勝手に嫉妬して憎みや恨みを抱き、そして勝手に怒る。

そこにはたぶん『評価』があるのだと感じます。自分の中の基準による評価なら自由ですが、きっとそこにある評価とは、あくまでも他者との比較による『持てる者と持たざる者』というような価値基準に過ぎず、わたしが持てないものを持っているように見えるあいつは、まるで“悪”や“罪”かのように評価を下し、陥れたり足を引っ張ったり邪魔をしたりと私刑という罰則を与える。まるで『罰がくだって当然だ』と言わんばかりの思考展開。そしてまたそのような者をまた制圧したり論破したり情報を晒したりする“正義の者たち”がSNSなどで罰をシェアしていく。

まるで狂った社会のようですが、それもまたそんな誰もが空いた時間や人生や自分の隙間を流れてくる名も知らぬ誰かの情報に沿って埋めるかのように『共感』を求めているのかもしれないですよね。どんどん流れていくそんなタイムラインから抜け出すには、確かに比較は必要だけど『評価』は不要ということに気がつくことではないかと感じます。そこにある『評価』とは、すべて架空とも言えるのですから、ましてやそんな基準値での幸せも不幸もそんな架空の概念に惑わされないように、“評価をしない”ということが、自分を解放する唯一の方法なのかもしれません。

『どうしてわたしだけが…』と思ってしまう思考の癖を持っていること自体が、きっと実は架空なんだと思うんです。そんな評価の中には永遠に自分は見つからないと感じます。だってそこにある自分とは“架空”なのですから。家族や親しい者への思いでも同じです。『どうしてあの人がこんな目に合わなければいけないんだ』と、他人のことに憤る気持ちもまた人情ではありますが、まさに“人を呪わば穴二つ”のように、そのような思考では、事態はきっと改善することは難しい。


それを古来から『天罰』と呼んできた

災害が起こり、その災害に巻き込まれた時に『どうしてわたしだけが…』と、確かに思ってしまうのもまた人間の性かもしれません。しかし、本当はどうなのでしょう。それについては実際、多くのことを語らねば説明がつかないほど様々な検証や観察も必要です。なので、ここでは、東日本大震災のあの当時の話題に大きく取り上げられたキーワード『天罰』について、あてはめて今回は謂わば“妄想”してみたいと思います。『もしも災害が天罰だったなら』という視点で進めてみたいと思います。

「どうしてわたしだけが、災害に巻き込まれたのか」と考えるのなら、正直、それって確かに正解だと思える見解なのだと私は思えます。大前提としてそうなのです。自然災害は人知を超えた領域に存在しているからです。だから人間の及ぶ範囲としては、「あの時、右に曲がっていたなら」とか「あの時かかってきた親の電話をめんどくさがらずにもっと話していたなら」だとか、様々な『もしも』があることでしょう。それらは過去の自分への後悔や反省としてならば未来に活かすことは可能です。

しかし、災害自体はある意味で予知能力などに長けていなければ、回避することなどは人間本位ではほぼ無理なのです。だから「どうしてわたしだけが…」と思うのは、確かに正しいと言える。自分がどうにかできたわけではないのですから。そして、その時、右に曲がったのも、あの日あの時あのように思い迷ったけど右を選択したのは、そうしたのは紛れもなく自分自身なのです。そう考えていけたなら、すべてはやはり“自分”なのだと言えます。

そしてその後、被害者としてなにかを要求するも、皆と等しく支援や権利を受けるのも自分ですし、それらに対して「もっと美味しいものをくれ」とか「俺は被災者だからもっと手厚くしろ」と思うのもまた自分。そうではなく「自分よりももっと被害をうけた人がいるだろう」とか「支援者も大変だから自分も協力しよう」などと思えるのもまた自分次第です。憤り、怒りを覚えたとしても、加害者は『自然摂理』なのです。

だからこそ、そこで自分がなにを感じ捉え、そしてなにをするのか。どういう未来に向かっていくのか。誰のせいでもなく『もしも災害が天罰だったなら』、どうして自分が選ばれたのか。もしもそう考えたとしても、その答えもまたすべては“自分次第”です。そしてその答えにはきっと“正解”はありませんし、多くの人間がきっとなぜそうなったのかなんて「わからない」と答えることだと思います。

あの頃、多くの人が言葉にしていた「なにも悪いことなどしていない私がなぜこんな目に合うのか」「罪もないあの人がなぜこんな目に合うのか」そこにある『こんな“目”』という人間の及ばない事象こそを、きっと古来から日本人は『天罰』と呼んできたのではないでしょうか。人智を超えた出来事でひどい目に遭う。だけど自分になにかあったのかもしれない。なにかの自分の在り方や生き方がそうさせたのかもしれない。なにかの真理は到底わからなくてもそこからまた改め立ち上がる。あくまでもそこにあるのは“自分”だからこそ、そこから律することができたのではないでしょうか。


“ひどい目に遭う”の『目』とはなにか?

こうして書いてみて、ふと気になってしまったのですが、そこにある“目”とは一体なにを指すのでしょう。もちろん『ひどい目に遭う』というのは、ひどい事態や出来事などに遭遇するという意味の慣用句であることはわかっています。検索しても辞書を引いてもそこにある“目”については解答はありませんでした。なぜ“目”なのでしょう。せっかくですからこの疑問を考えてみたいと思います。もしもこれを読まれる場合は、決して信じないでくださいね。ネットは別に解答が載っている場所ではないのですから。

部首の一部に“月”のつく『にくづき』などとも呼ばれる身体の一部を表す漢字や、その他にも「頭にくる」や「腹が立つ」「腑に落ちる」「鼻が効く」とか様々な慣用句はありますが、『目』に関しても多いです。「ひどい目に遭う」「散々な目を見る」「痛い目を食らう」もちろん「いい目に遭う」という逆でも使用します。他にも「目にあたる」「目にかなう」「目をかける」「目が痛い」など、様々な活用があります。

「目」といえば『視覚』の器官ですので、それは通常は「見る」「見える」という活用になるものです。ということは、例えば『○○の目にあう』という「目」においては、意味のままに解釈するのなら『目=事象』ということにもなりますが、そこには少なからず「見る・見える」という要素があるのかもしれません。ではその『目』とはいったい“なんの目”または、その目はいったい“誰の目”なのでしょうか。

すべては仮説を超えた妄想としてですが、その「目」をなにかに限定せずに『すべての目』と捉えてみます。昔からある表現の中で「お天道様が見ている」「神様が見ている」「ご先祖様が見ている」や、時としては「必ず誰かが見ていてくれる」とか「誰かに見られている気がする」とか、そのような表現が多くあります。確かにこれらは事実だと言えます。

「夜中に山の中に不法投棄をしようとしたが、フクロウが激しく鳴いたので怖くなってやめた」とか「食べるのが面倒で捨てようとしたが、その瞬間なぜか、もう亡くなったおばあちゃんが昔よく言ってた“粗末にしちゃバチが当たるよ大切にしなきゃいけないよ”という言葉が急に思い出して思いとどまった」とか、そういう現象が人間には起こります。それもまたなにかの『目』と言えるのではないでしょうか。

実際に現実としても、山の中ならそこにはフクロウだけじゃなくて、様々な動物や昆虫や、距離は離れていたとしても通行する人間や車や、もしかしたら草木や夜空の月や星にいたっても、様々な『目』があるのです。ましてや後者の例にいたっては、そこにある目は、すでに亡くなった先祖や故人であって、それはまた自分自身の中の思い出や記憶やなにかしらの倫理観や、または第六感とも呼ばれる虫の知らせや予感などです。それにおいてもまたなにかしらの『目』ということが可能です。


見えない“観察者”という存在

つまりは、常にこの世界には『観察者』が存在しているということになります。もちろん時には家族や友人やパトロール中の警察官や野良猫などの現実的な存在の場合もありますし、現代ではその目が“防犯カメラ”という場合もあるでしょう。そのように、可視化において可能でも不可能であっても、自分以外の“なにか”が常に存在しているということです。そしてその“目”は、常に“観察”しているのです。

ある種、ホラーやサスペンスのような話でもあるかもしれませんが、たぶんこれはきっと宇宙に行っても同じ感覚なのではないかと予想します。現実に宇宙飛行士の発言記録の中には、「なにかにずっと監視されているように感じる」などの記録は多いです。そのようにこの感覚は、人間の共通観念や感覚、もしくはある種の能力とも呼べるものなのかもしれませんし、またそれは、自然の現実の仕組みというものという可能性もあります。

「見る」という認識は、実は目に限らず、嗅覚や触覚や聴覚などでも『見える』と認識するように、人も見えない場所や遠くの距離でも、そこにあるなにかや誰かを感知することは事実です。飼い犬が何十メートルも離れているのに、飼い主が近づいてくることを察知していたり、そのような様々な、ある意味で『見える』という感覚や『見られている』という感覚は、確かに存在するのです。

そのような自分以外の『他者の目』や『自然の目』という感覚。もしかすると、その“目”で見ている『観察者』がいることを前提に我々は暮らしているのではないでしょうか。その観念は生活のあらゆる場面においても機能しています。一概に『ひどい目』や『痛い目』などの災難や『監視的』な方向のみならず、逆に『いい目に遭う』ことや『痛い目に遭わなくて済んだ』などとして福音的な効能や、その目によって守られるという『守護的』な効能も同じくしてあるものです。

すなわち、その目を持つ『観察者』は、監視者でもあり同時に守護者でもあるのです。古来からの表現に当てはめるなら、それは「ガーディアン」などとしての天使や妖精や式神や妖怪や、そのような自然霊的な存在にも当てはまりますし、その目は、西洋文化形態にある『GOD』とも言えます。東洋的になら『仏』となるのでしょう。そこには様々な天の使いや先祖なども含めた霊体や精霊などとして、常に我々のそばにあって導き助け、そして見守っている『目』なのです。


宗教における“目”は善悪の監視者

西洋も東洋でも、その思想や哲学等における社会構造も、キリスト教や仏教などの宗教下にある教義や戒律にある『善悪』や『罪と罰』という概念を支えているのも、きっとこの『目』なのだと思えてきます。そうして秩序や法は成立しているのだと思えます。キリスト教を含む聖書体系の思想に『原罪』がありますが、人は生まれながらにして、そうして『監視』されている。つまり『見られている』のです。特に現在の西洋思想の根底には、ある種のその原罪による教義的な束縛が現在でも根底にあるようにも感じることも多いです。

そう考えると、宗教というものは、基本的にはこの“目”によるものなのではないかとさえ思えてきます。そして多くの宗教というシステムにあるその『目』は何者かと言うと、たぶんそれは『監視者』に値するのです。監視者ゆえに罪に対して『裁かれる』という原理になるのです。人間は前提として罪を犯す存在なのだから、そこには『監視者』による『目』が必要になるのです。その思考が発展すると、そこには秩序のための“戒律”が必要になります。それが西洋文化体系における『法』であり、その法が社会的に言うならば『目』ということにもなると思います。

現代の多くの先進国家は、そのような宗教的な土台の上に建設して行った国家です。ゆえに、裁判でも懺悔でも聖書に手を置き、仮にも『GOD』が裁かれるというスタイルを必要としています。人が人を裁くのではなく、あくまでもGODという『目』によって裁かれるのです。そして、だからこそそこでは「法」は絶対であり、またその法もあくまでも人間ではなくGODを基準としたものということで、つまりはすべては『善悪』という一神教主義でもある二元論が正当と限定されることになり、すなわちその“目”を持つ観察者は、宗教という概念においては、善悪の判断を裁く『監視者』と言えるのではないでしょうか。

まるで性善説か性悪説かのような話になってしまいましたが、そのような現代社会自体が、どんどん『監視社会』へ進んでいることは間違い無く、それもまた必然なのだとも感じてしまいます。人間は罪を犯すものという前提があるのですから、監視者は必須なのです。そしてそのような『あなたを守るために“携帯電話”を教えてください』などというインターネットなどにおいても拍車がかかる監視システムは、どこまで進むのでしょう。そして重要なのはその先です。その監視者の役割は『監視してその結果、善悪として選別して裁かれる』という原理に基づいているわけなのですから。


日本における“目”はなんだろうか

では、ここ、日本においてのそんな『観察者の目』とはなんでしょうか。ここまで読んでくれた方ならまさに御察しの通りです。古来からの日本の思想や信仰や風習においても、その“目”とは『八百万の神』つまりは『自然万物』生きとし生けるもの万葉の全てが『観察者の目』ということになります。ここがもっとも他の一神教的な善悪二元論と異なるところです。

それは、日本が多神教ということを指しているわけではありません。日本神話においても自然自体のすべてが『神様』であっても、いわゆる『創造主』はちゃんといます。もっとも、その自然崇拝とも呼ばれる民俗などの根元にあるであろう神道においても、敗戦による日本改革以前までは、本来は宗教とは全く異なるものであり、そこにはただ『信仰』がありました。それはまたある意味で『道徳』や『科学』にも等しい生きる指針や世界への理解と言えます。

そのような言わば『宗教のない国』において、“観察者の目”はこの自然万物、世界や宇宙のすべてだったのだと思えます。きっとそれが、日本の優れた思想や科学的な理解力でもあり、また生きる上で起こる吉凶混在の様々な事象に対しての『自らのあり方』や『生きる指針』だったのだと思います。そしてだからこそ、その観察者である全万物は、言い換えるならたぶんそれは『守護者』であり、もっと言うならば『ともにあるもの』だったのではないかと感じます。

自然との共生はもちろん、『畑の野菜はみんな天からの恵み』や『お天道様のお陰だ』とか、それこそ食事の際の『いただきます』もすべては、そんな“目”である万物への感謝やご恩を表しています。無論、その万物には食事を作ってくれた人や作物を育ててくれた人も万物に含まれた上での「いただきます」です。なんか日本として自国だからこそ、いいことばっかりを書いているようにも感じられてしまうかもしれませんが、常に物事には反面はあってこその摂理というものです。

『ひどい目にあった』でも『いい目をみることができた』、それこそ『日の目を見る』なども“太陽”という天への畏敬を含んだ表現でしょうし、そこには必ず、共に生きて、それらの万物の恵みや、万物の災難でも、同じくして『共有』しているという観念が見受けられるのです。つまり自然万物や神様の恵みは『所有』するものではなく、最初から最後まで『みんなのもの』なのです。

だから、なにか災難があったなら『天罰』と捉えて、また改めて真摯に生きるのです。すべては誰のせいでもないですし、誰かの過ちならば皆で改善すればよいですし、災害で田畑が津波に遇ったなら、またみんなで耕す。それもまたきっと天からのなにか必要なお知らせなのだろうとでも言わんばかりに、たとえ憤っても悲観にくれても、人間の範囲を超えたことにいちいち怒るという愚かで不毛な反応をするわけじゃなく、またただただ人間ができることをする。

だからこその『天罰』なんです。この『天罰』という仕組みには、とても優れた宇宙の『循環理論』のようなものを、私は感じます。その現代科学をはるかに超えたサイエンスや万物への理解が、この『天罰』というシステムにはあると思っています。また人間本位な視点から見ても、人間がどうこうさばけるわけのない問題に対して、もっとも謙虚に、またもっとも安全で最前な反作用を生み出すことのできる、非常に“うまい解釈”とも言えますし、つまりは『誰も加害者を作らずに皆が協力し合えて未来をもっとよくする』というとても先進的な観念だと感じます。

そしてこの『天罰』という観念は、決して『裁き』とは違うものだと考えます。『天の裁き』という宗教にはそこに“恐怖”による監視下の秩序の形式がありますが、『天罰』はとても自然的であって、言うならば『神様のしたことにはしょうがない。なにか意味があるのだろう』というような感覚があるのを感じるのです。そして『天の裁き』が人間を善悪で裁き“罪状”に対した罰則を与えるのに対して、『天罰』にある“罰”には、特に“罪状”があるわけでもなく、その罪の意識や罪状はすべて『自分』にあるのです。

ゆえに『天罰』をいかに捉えるによって、その人の未来という本当の償いが変わるのです。『どうしてわたしだけがこんなひどい目に遇うの』と思うような被害者意識の強い性質なら、その人の周りには『監視者や加害者の目』ばかりになるような、それなりの未来を呼ぶことでしょうし、なにがあったとしてもいかに生きていくのかによっては、その未来には『守護者の目』によって、どんな苦難だとしても、そこに必ず恩恵や御守護や生きる知恵という恵みに気がつく、万物に愛される人になることでしょう。


自然万物に“目”をかけられる

なんか最後は倫理観というか道徳的な話みたいになってしまったかもしれませんが、そうなんですよね。どんな事象でも、いかに捉えるかとか、そこからなにを感じたり、なにを学ぶのかということで、現実は大きく変わるんです。被害者意識や監視されているような意識では、確かにあまりいい人生って送れない気がしますよね。そういう側に選ばれないような意識でいたいですよね。どちらかと言えばそういう『監視者の裁きの目』に選ばれるではなくて、そんな『守護者の目』に“目をかけられる”ような生き方をしていたいものです。

さて、いま出てきた『“目”に選ばれる』言葉でなら『目にかなう』とか『目をかけられる』などの意味です。そんな万物の“目”に選ばれるというのは、どういうことでしょう。「禍福は糾える縄の如し」と言いますが、人生には吉凶や禍福がバランス良く訪れるものと言われています。さて、最後にやっとこの話を『もしも災害が天罰だったなら』という主題に繋げます。

「なにかの気まぐれや緊急の事情で乗らなかった飛行機が墜落した」とかそういう話はよく耳にしますよね。だとすれば、その陰には「キャンセル待ちをしていた誰かが乗れることになり墜落した」という世界も存在します。そのように人の数ほど世界は存在するようなもので、1秒後にどの世界を選び進むのかは、すべて自分次第です。もう天に預けるしかないくらいの話ですが、実際に世界を選び決めているのは自分なんですよね。

しかし、飛行機に乗らなかった理由が、「たまたま搭乗手続き寸前に親族などの緊急事態の報告の電話があり、搭乗を諦めた」そして、すぐに空港から病院へかけつけたら、どういうことかその親族は急に回復して元気いっぱいだった」とか、自分だけでも「急に高熱におかされて、搭乗を見送った直後に、熱が急に下がった」とか、そういうふうに、なにか『見えない力』のような現象がこの世界にはあります。虫の知らせなども同じですよね。

そのような時に思いますよね。『選ばれた』とか『救われた』とか、つまりは『おかげさま』という恩恵が起こるのがこの世界の不思議でもあるのです。この世界に偶然はないと言う人も多いですが、道を歩いていたら鳥のフンが頭に落ちてきたなんてことにも、きっとなんらかの意味や、鳥や自然万物に“選ばれた”のだということになります。フンまみれになり、一見、不快でアンラッキーな気持ちになりますが、もしかしたそれによって、次の角を曲がった時に車が突っ込んでの衝突事故に遭うという未来を回避できているのかもしれません。

そういった見えないなにかに“選ばれる”という理論にあたはめるのなら、『災害に選ばれる人と選ばれない人』つまりは、災害から『目をかけられる人』にも、もしかしたら一定の選別的な理由や原因、または種類や性質などがあるのかもしれません。人間視点では『どうしてわたしだけが』とか『罪もない人なのに』だとか、そのように捉えてしまうものですが、本当に自然万物としての言わば『万物の采配』に対して、できれば災害には選ばれずにいたいものですが、きっと真理として、摂理としても、そこにはなんらかの理由があるのだと私は思っています。


すべては万物の采配

あの東日本大震災以降、多くの人々が、不平不満に焦点を当て、まるで被害者として権利を要求しながら社会に生きているように感じています。そのような被害者意識では、万物はどのように采配をくだすことだろうと、いささか心配にもなる現在です。災害には自然災害以外にも人災がありますが、その人間もまた自然物であって、森羅万象すべてが実は繋がっているものだと思います。人間が怒っているなら因果応報として怒りが返ってくるかもしれません。

どんな選別や結果や判断や、偶然や必然や理由や原因だとしても、それらは天罰という思考で解明すると、つまりは『すべては万物の采配』なんです。その采配によってどちらに選ばれるのかとか、大きく大きな循環理論というか因果律的なこともふまえて導き出すのなら、天災もまた“人の行為の結果”であって、つまりは大多数がその結果を選んだということになります。それに対して受け止めて改めるならわかりますが、ただ不満をぶちまけるならさらに未来はその方向に進むことでしょう。

もしも災害が天罰だったなら、自然災害はきっと意味あって天から采配される『気づき』や『課題』としての『未来への恩恵』という守護だとも言えてしまうのですが、不満ばかりを天にぶつけている人類が増えれば増えるほど、世界は暗く重くなり、それを一掃しなければ清められないほどに、つまりはその状況を改善し、すべてを助けるためにも、ぶつけられ充満した負の想念をいかにして清めるのか。そして皆が『生きること』をいかにして促せるのか。

もしも災害が天罰だったなら、たぶんいまでもそんな会議が天で続いているように感じます。もしも現人類が、そのことに気がついたのなら、その天の会議に対して「慈悲もない不当な扱いだ!補償金をよこせ!」とかとか、人間本位な生きる権利ってのをつぶやき合っては怒るのでしょうか。まぁ、冗談です。そんなことはしないでしょうけれど、実際にあの大震災の頃はそのような言動はたくさん目にしたのも事実です。

それよりも、自然万物に選ばれるというか、自然に愛され目をかけられるような生き方でこそ、生活も人生も社会や目に映る世界すべてが、結構『守られているんだ』とかって感じることができるかもしれませんよね。そうそう、ここまで書いてきたそういう『日本独自の信仰心』のようなもの自体に、本当は『生きる指針』や『軸』が本当はあったのだと思うのです。それを明治維新や敗戦などによって失った。

そして、日本人はつまり『自分』さえもわからなくなったのかもしれません。自分を失っているからどうしても他人の評価が必要になっちゃうんですよね。それでまたそんな『評価』こそが自分に当てはめてしまう。そんな比較ばかりに生きてたら、そりゃあ不満ばかりの被害者ですよね。でも本当はきっとそこにある被害者も加害者も『自分』の化身なんですよ。だから、そんな『自分』をそろそろ自分の本位に戻してあげる頃なんじゃないかって、それがまさに『万物の目にかなう』生き方なんじゃないかって感じます。さて、次回はこのシリーズは最終回とする予定です。

つづく ──

20210819



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