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Internal Universe


上の写真は、井戸に見えると思いますが、これ、井戸ではないです。なんていうんだろ?溜池… 池でもないですし… まぁ、水を溜めてある…水瓶?———っていうか、使わなくなったので、ここに放置していたら、水が溜まったものですね。

また機会があれば、今度は、もっとちゃんと環境整えて、撮影したいと思っていますが、携帯のカメラで、この環境では、水面に光や空が反射してしまって、詳細な撮影は無理でした。正直言えば、水中カメラとか使わないと、本当の臨場感や、実際に近い感覚を伝えるのは無理ですよね。(そこまでしようとは思っていないです)


——— ダメだ。写真には撮れない。伝わらないですね。

なにを伝えたいのかというとですね。これ、この水瓶。この程度の小さなス空間。隔離された、言わばインナースペース。

小さな湖みたいなものですが、空間としては、水面が地表の大気との接点を持っているだけで、大雑把に言えば、空気と雨水と日光との接点のみを持った空間の境界の鏡。

人間は、それを「水面」とか「透明」とかという判断や認識をしている部分です。そして、それ以外は、閉ざされた空間。


微粒子のレベルまで言うのなら、この水瓶のようなこんな人工的な物質は、スカスカな隙間だらけなんだろうけれど、まぁ、そこまでいちいち言っても面白くない。

この水面は、嵐や強風が吹けば、確かに波立つ。その波を人間の視点から見れば「さざ波」とか「渚」とか名付けてもいいんだけど、本当はそれよりも小さな波で波紋よりも小さい。たとえ台風の日でも、人間から見れば、いつ見てもここだけは波立たない程度の穏やかな泉。


しかし、ここに住む生物から言えばきっと、この水面即ち境界の接点は、小さな揺れでも大きな津波。でも人間から見れば、いつ見ても穏やかな水たまり。

水面は静かに波立つ。だからこそ生命は生きられるとも言える。そして、微小の波動を水中に送り、命は流動し育まれる。そして水面は、ただ空をいつも映している。

そこで言いたいのは、そんな水面のことではなくてですね。これ、写真として伝わらないですが、本当に写したかったのは、水中の世界を写したかったのです。


境界の外側(人間が住む地上の大気に包まれた世界)は、それこそ雨が降ったり大嵐が吹き荒れても、この井戸のような器、即ち空間の内側である水中は、なにもおきていないかのように、いつでも穏やかなんです。外側の人間には穏やかに見えるんです。

人間に喩えるならば、それは地球を覆う大気の層に、放射線でも太陽風でも総て濾過されるように、宇宙と地球の境界線の水面に包まれて、我々は生命を維持している。

海の中の生物もそうですよね。クジラやイルカが、一度は地上に棲んだけれど、また海に戻ったなんていう学説もあるように、地上との境界線によって守られている。


文明が何だ、クローンが何だ、宇宙からの飛来が何だかんだとは言っても、結局はこの星の現在の認識では、生命の起源は海、即ち水中から始まったとされる。もっとも起源よりも「生命」という名称は一体なにを差しているのかは誰も語らない現状だが、それはきっと人間があまりにも狭い囲いの中の世界の認識しか捉えていないからなのだと、実は私はそう思っているのだが、水の性質である「波」という揺らぎは、宇宙自体の性質にそっくりでもあり、地上での大気の揺らぎもまた、生命の息吹とよべるエネルギー集合体であることはたぶん間違いないだろう。

つまりは水は、生命を生み育み、空間や世界そのものを包み込む羊水のようなものかもしれない。そう、胎児も一緒だ。閉ざされた境界の内側、母なる水中の中で護られ育つ。

この写真の水中は、いつ見ても穏やかで、私はちょっと変な人間なので、それを何十分でも、ずっと眺めてしまうんですよね。田植え作業の最中なのにもかかわらず。誰かに呼ばれて渋々、また作業に戻ったり。


この水中には、いわゆる「藻」が、空間のど真ん中に大きく巣食っていてですね。よく見るとその中に、そしてその周りに小さな微生物や小さな虫の幼虫とかが、いっぱい棲んでいるんです。

人間の視点では(あくまで私の視点では)、完璧な調和と平和が、外気に脅かされない空間の内側で、おだやかな時間の流れの中に、宇宙が存在しているように思えるんです。

きっと何も知らずに、空間の外側のことなんて何も知らずに。たぶん、私が水面を覆う様に覗き込んでいるのですが、それもたぶん「ああ、なんだか少し暗くなったな」とか「なんか、大きな雲が出てきたな」とか、思う程度なんだと思うんです。

これが河川だったなら、魚や鳥や大きな虫や、は虫類やザリガニや貝や亀や、様々な捕食者がいるはずなんですが、この空間には、それらが存在しない。

なんでもなく、なんの意識もなく私が、ここに魚を放してしまったら…(人間ってそういうことをよくやるんですよね… 罪作りですね。)

田舎へ行って理由も無く、昆虫やカエルを持ち帰って、結局持ち帰る頃には、興味を無くし、その辺に放してしまったりね。生態系はそうして壊れて行く。現代では地球上で起こっている、最も恐ろしい現象のような気もしてきます。

しかし、それをしている人間も自然物と言えば、それも自然ではありますけどね。でもそれによって、自らの首を絞めているのは確かですよね。

ペットショップ等で、タランチュラとか、毒蛇を見ると、たまに思います。ここに大地震が来たなら… こいつら、放されてしまうんだよな…って。そうしたら「遂に日本に野生のタランチュラ出現!」とか、マスコミは騒ぐのでしょうけど、タランチュラに非は無いですもんね。


話を戻します。そのくらいに、この水中は、いつ見ても穏やかなんです。でもちょっと考えればわかりますが、こんな小さな穏やかな宇宙の中でも、微生物同士の捕食関係はきっとあるのでしょうね。

でも、もうひとつの考えは、それは無く。藻や死骸を食べているだけかもしれません。


——— ここで、「if」を考えてみましょう。

もしも、この中の一人(一個体)や一種の微生物が、他の微生物よりも賢かったとして、その彼が自己の利益の為や、また全体に善かれと思い立ち、死骸を集めて、それを他の生物に提供するシステムを考え出したら… きっとそれが商業、いや、それ以前に人間界で言えば、銀行のなりたちかもしれません。

きっと、その微生物達は、自らをこの世界で一番賢く進化している存在だと自認することでしょう。そしてその他の生物や環境までをも、自分たちだけのルールや感覚で管理しはじめることでしょう。その管理という認識はまるでその世界を「所有」しているかのような観念に育ち、その身勝手な架空の概念はいつしか所有物の分け合いや奪い合いにも発展するかもしれません。話は大袈裟ですが、他の生命よりも、一時的に数も増え、発展することはほぼ間違いないことでしょう。


しかしきっと、大量に死骸を集めた為に、その後、空間の底で、本来ならば土に還るサイクルだった分までもが摂取され、底のもっと底の部分で、傾いたバランスはガスの生成を不規則にさせ、宇宙の中心にあった大きな幹である藻の酸素の生成率とのバランスも崩れはじめる。

そして次第に、澄んでいた水(水中で言えば大気)の成分も変わって行き。いつか突然、偏った炭素ガスが底から爆発し、穏やかだった水は、いきなり狂気のように空間を暴れ回り、大被害を起こしてしまう。

調和は崩れ… そのとき、あの賢い微生物は、後悔するかもしれませんが、もう、彼の生きていた時代は、閉ざされた空間の内側の時間では、何千年も経った後で、彼はもう何代も前の時代の世代であって、もう現在は、その何代もあとの子孫達にとっては、食事はいつでもあそこに行けば買えるとか、ましてや、こっちの集落よりも、あっちの集落に売った方が儲かるぞ!とか、それが当然になっている時代だとしたなら…

現状の世代はこの「世界のはじまり」を知らないので、当然ながら誘発した事態に対して、天災だー!とか、なぜ、罪の無い我々を… だとか、きっとのたまうことでしょう。——— とかね^^


でもねぇ。自然って強いです。自然ってそんなもんじゃないですからね。…って「自然」とか言って…どこまでを自然とするか?って、そこんところはまぁ曖昧にしておく感じですね(笑)

そこまで擬人化しては書かなかったですが、先の話で言えば、我々人間がきっと自然の一部と呼んでいる微生物は、きっと自分のことを自然だとは思っていなかったでしょう。そしてまた、後世の賢い誰かが、護られた調和の世界に自分が住んでいるということを、思い出してくれたなら嬉しいですけどね。


田舎に居ると、ほんとね。あっと言う間ですよ。例えばビニールハウスだって、土の上に建てますよね。そうするとあっという間です。人間はビニールやプラスチックを害だとかいいますけどね。それは、都合のいいとても短い時間を見ているだけで、すごいですから、この世界のバランスはね。

ビニールなんて、土と交わり、日光に晒されていたら、あっと言う間ですよ。すぐ、粉々になっていく。機械や鉄とかもそうですよね。あっと言う間に、錆びて、そこにも苔や虫や様々なものが、あっという間に自然に還します。

そう、あっという間。200年とか、1000年とか、あっという間です。

あっという間に、我々の体も、虫や菌や動物や、そんななにやらが、すぐ自然に還してくれる。例外なのは、氷の世界と、そして人間のみが行う火葬くらいなもんだと思います。火葬は伝染病などを防ぐためにはとても重要ですが、自然摂理の中でみると、非常に異質で、循環する生命の共生の輪から断絶する行為だとも言えます。

どうりで火葬が主流になってからの人間は、あまりにも自然の中での生命力や、謂わば生きる超能力的なものが、著しく退化したとも言えるのではないかとも感じますね。種としてや、生命としての「共同体」という感覚も、もはや失われ、現代社会における「自由」とか「平等」とか「平和」や「愛」なんていう思考や観念は、ただ個人的なわがままのような、実に人間の都合でしかない思考に満ちあふれていて、たぶんそれって、生命として、種として、あきらかに滅亡や淘汰に限りなく近い種族になってしまっているのだと、私は感じます。


さてさて、話が右往左往してしまいました。この写真を見てください↓

ぜんぜん上手く撮れないんですが、これが藻です。この藻が、静かに酸素を球体として、ちょっとずつ吐き出しているんです。

そして、きっと、この藻が、この空間の中央に広がっていて、これが、この水中の空間を安定させ、揺れもおさまり、また水をも腐らせずに、そしてそこに生物が棲んで、藻に護られている。

そしてそして、小さな生物達は、泳ぎ回り、大気(水)を流動させ、水をも活かし、またそれは藻を活かすのです。ここで死んだ死骸はまた、この宇宙を護る要素となり、そしていつか何種類かの虫達は、成虫となり羽ばたいて、この空間の外側へ向かうわけです。

天空の城ラピュタで言えば、あの大樹が結果、あの城を護っていた。とかも同じですね。まさに、日本で言う「御神木」です。

ここで、もう一度、一枚目の写真。

円の中央に、緑色のポチってあるでしょ。あれが藻の天井です。あの部分だけが外界と繋がる、謂わば「ワームホール」的な接点です。この天井のポチから下方へ末広がりに、この藻は生成されています。まさに「クリスマスツリー」もみの木みたいな感じで、上部の一点から下方へ膨張し、伸びている。

写真では水面の反射で伝わりませんが、クリアな水で、藻には球体のクリアな泡がすこしずつ点々とあって、その周りを、小さな小さな生物が周り、また浮かんでいて。ほんとね。何に似ているかって言うと。

ほんと、宇宙の星雲そっくりなんです。天体観測してるみたいです。

最後にね。

元々を思えば、ここにこの器をほったらかしたのは、人間で。…ということは、この水(大気)も、生命の種も、空間の外側からやってきたものなんです。

いまもこうして、木々の花が落ちたり、ほこりもあるし、羽虫達が卵も産むかもしれませんし、またなにかの拍子で、偶然なにかがこの空間に境界を越えて、飛び込んでくる可能性も常に100%あります。

それは地球で言えば、見えない○○線などもそうですが、物体なので、それは流れ星のようなものでしょうね。


いやぁ、長くなっちゃっいましたね。要は、ただの、誰にも見向きもされず、ほったらかした、きったない器の話です(笑)

バランスを崩せば、調和が崩れる。それを地球で言うなら、風も雨も地震や雷や、それも総て調和を戻そうとする現象であり、万物の意志であり、万物の采配であるということでしょうね。

その調和。自然界の動物や虫や植物を見てると、ほんとね。みんな真面目に、バランスを整えようと生きています。つべこべ言わずにね。全部が可動していて、休みなんてなくて、回り回って、巡り巡って、流転しながら、形成していて。ほんとね頭が下がります。

ダニとかね。いるじゃないですか、見えないけど(笑)そんな虫けらにも、我々は、護られてるんだなぁってね。あ、でも、カラスとかは、なんか、いたずらするね。あれも、また面白い。それもまた、万物の采配なんです。でもまぁ、きっと、カラスから見た人間の方が、よっぽど面白いんだろうな。

それら総てに神を感じ、生きた。元々の日本人の感性もまた、思い出したいと私は思っています。本来の信仰のようなね。それこそ、そういうことやこういう視点こそが、最も科学的とも言えると、子供の頃から思っていました。


平和とかね。救済とか。どうも現代の人間がやることは、意識過剰な気がしてしまうのですよね。こうして、こんな溜池とも呼べないちいさな空間を外から眺めているとね。どうも、人間の言う平和とか、秩序って、どうも違うなぁって思えてくるんですね。

調和の観点で言えば「幸せ」なんて概念を作るから「不幸」が生まれる。幸とか不幸とかは、ちょっと考えればわかると思うのですが、まったく架空の概念だと思うんですよね。大げさに言えば、まるで意図的に「不幸」にするために、意識下に埋込まれたウイルス的な馬鹿みたいに単純なコード、それが「幸福」っていう実におめでたいハッピーな架空の刷り込みのような。

こんな泉の中で思うのは「なにもしないこと」が、一番調和的な宇宙を眺めているようなね。でもまぁ、なんもしないってのは「今や過去を維持する」ってことではないんです。お金も安定も、時に愛情でも、ひとところに抱えてしまうと、バランスは崩れます。それはまるで、時間を閉じ込めてしまうようなものな気がします。

それを動かすことが、変化でもありますからね。人生などが上手く行かない時は、人生の流れや世界の調和を崩している張本人は「自分」だって思えばいい。その傾いたバランスを、戻すというよりも、先へ調和させることができたら、それって発展だし、進化だし、それこそが、この世界を活かすことでもあって、それによって、また自分が活きて。それが、きっと、宇宙も喜ぶことだと思ったりね。

そう。人間も万物の一部なんです。死んでも、殺されても、生かされても、またすべては万物の采配なんです。

自然に愛されるかどうか。実はそれって、万物としていかにして、ここで生きているのかってことが重要なのだと思うのです。

だってきっと。ここも、閉ざされた内部の宇宙なのでしょうから。


そういうね。宇宙は、バランスですよね。

「Internal Universe」そして、その外側にもまた。


20120602 15:00(2018再編)



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