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日本人という民族性への違和感《 3.11後からの日本を案ず(18)》

── 前回「地球がグラウンド・ゼロになる日」の続きです

私感:世間とのズレの認識

東日本大震災直後のテレビの内容では、平常時の各企業CMの公開は自粛され、ACなどの公共的団体が制作した一定の公共性による秩序に基づいた内容のみを繰り返し放送していました。「ポポポポーン!」や「こだまでしょうか?」というフレーズも流行していましたね。その期間の報道番組やワイドショー的な番組では、テレビタレントなどをコメンテーターに招き震災や復興の様子を取り上げていたのですが、当時は震災直後ということもあり、コメンテーターも感情的になり放送としては、あまり相応しくない過剰に偏ったシーンも多かったと記憶しています。

一言。人間ですから、それは仕方のないことだと、きっと日本人の誰もが思っていたと推測しますし、中には、一般市民の代弁者的な発言をして、多くの共感を得る場合もあったと思います。現実の目の前としても、また、テレビの画面の中だとしても、多くの人命を失った惨劇が目の前で起こり、それを直視した方も多かったのですから、被災地とは遠方に住む人でも、心理的に緊迫した症状に陥り、その後長期間にわたり心身ともに体調を崩した方も多くいました。

既に先述済みですが、その中でも私個人が違和感を覚えた言動などもありました。「海のバカヤロー」「神はいない」「神さまはなぜ罪もない人を殺すのか」など、そのような言葉は、いまだから本音を言いますが、当時の私にとって、とても傷つかされた人間のさまでした。そして呆れるほどに、こう思っていました。「この方達の思考回路や生き方や価値観は、現代に侵されてしまっていて、怠惰のようなものなのかもしれない」そう感じ、また捉えるほかありませんでした。

もう一度書きますが、「人は土から離れては生きられない」映画『天空の城のラピュタ』のシータのセリフです。まさにそのように感じていました。「この方達はきっと自分が地球の地表に棲んでいるということを誰にも教えられずに、またそんなことを自分で気がつくこともできずに、ずっと自分が誰でどこにいまいるのかさえも考えたことすらしてこなかったのかもしれない」と、思えました。


私感:日本人に対しての認識

たぶん、こんなことを書けば、きっと私が異常者のように思われてしまう時代に生きているのかもしれませんが、当時の私も、もちろん、こんなことは一言も言わず、そんな考えもひとつも見せずに、ちゃんと自分を守っていたことには間違いないのですが、しかし、こういう人々のあまりの多さに、心底驚いて、自分がそれまで生きていた世界や日本という国、普通に会話していた知人や友人、その多くが、あまりにも自分とは異なっていたという事実を思い知ることに至りました。

正直、この日本は、もっと “土に足をつけて生きている民族” であると、私は勝手に思い込んでいたのだと、あの頃、やっと知った。そんな感覚でした。

それでも、ネットなどを見ると、どうも海外から「日本人ってすごい!すばらしい!」という評価が多く届いていたことに、その応援やその気持ちにとても感謝をして、それこそ、人間ってすばらしいと思ったのも事実ですが、それと同時に「こんな今の日本人でさえも、世界的にはこんなにも優れているということは、地球人とは今、いったいどの段階にいるのだろう」と、愕然としたのも本音です。

マスコミなどは常に意図的に操作され偏向的な報道しかしないのもまた現実ですが、テレビ報道やその他のエンターテイメントとしての各番組の放送に、心を救われた方々も多かったことだと察します。ある意味で、娯楽の大切さとはそういうところにもあります。そんな震災直後のあの当時、特にテレビを中心に、SNSやネット内においても、一時的にとても話題となり、現代で言えば『炎上』して、多くの批判を浴びた人がいました。当時、東京都知事だった石原慎太郎さんです。


日本人という国民性の変容

石原氏の発言、「津波をうまく利用して我欲を洗い落とす必要があるね。積年たまった心の垢をね。」
「これはやっぱり天罰だと思う。」特に、これらの発言が、多くの国民やマスコミなどから反感を買い、不適切発言として、ご本人も都知事としての立場の上、謝罪したということがありました。

確かに、現代の社会性における秩序を重んじた公共性において、都知事という首都の代表が、公人として都民及び国民に発言する言葉としては、確かに相応しくないということは、私でも理解しますし、謝罪すべき言動だったと思います。しかし、個人的にはとても石原慎太郎らしい見解であり、その言葉の意味することは、かなり的を射ていると、私は思っています。

はじめにひとつ書きたいのは、この天罰発言に対する国民の行動や当時の民主党政権交代劇なんかを見ると、「日本人ってこんな民族だったっけ?」「あまりにも利己的で稚拙とも呼べる行動でとても感情的になってしまったものだ」と、私は思っていました。

その反面で、SNSなどの働きもあり、友情を尊ぶ性質も見受けられたりもありましたが、しかしそこで見る友情は、どうも利他的な人情劇とは思えないもので、そこでもどうしても感情的な共感主義による「利己主義」による都合の良さのようなものを感じました。ボランティアとしての救助や協力としても被災地に勝手に乗り込んできては迷惑をかけてしまう個人も多かったのもそのひとつの現象です。

多くのそのような感情的な都合の良い勝手な言動があり、たとえ善意だとしても不利益を生んでしまったり、多くの政治関係者がとにかく耳障りのいい発言とともに、被災地の視察に出向いては、実は役にたっていないという現実も確かなものだったことでしょう。

しかし、そこで思うのです。そんな中、リーダーシッップを発揮し、とにかく「実行力」として行動していたのは、石原氏のような性質の人だったのではないでしょうか。現実性のある和解策や復興に向けた発案と実行を、そんな避難一色の中でも、石原氏は最優先して取り組んでいたことは事実でした。しかし、現代の日本人、有権者でもある一般社会人と呼ばれる層には、そんな実行力よりも「天罰発言」への避難のほうがきっと優先順位が高かったのかもしれません。

そういう現象や現実を3・11以降には多く目にするのですが、マスコミの報道傾向もまるでそのような心理を利用した印象操作や効果を狙う演出ばかりになってきました。そこでやはり思ってしまうのです。「あぁ、この国はとても豊かになったのだな」と、そして「現代人の脳みそは皆、その豊かさによって、反射的な“反応”しかできない生き物にまで進化したのだな」と、もちろん皮肉的な表現ですが、かつて日本人と括られて認知してきた民族性に、現代の日本人という国民性を比較すると、明らかに誤差があり、ある種の違和感を感じざるを得ないのです。


石原慎太郎さんの真意

そんな石原氏が後に都知事を辞職したあと、ご本人にインタビューした記事をネットに見つけました。日経ビジネス電子版の2018年3月29日の内容で『石原慎太郎氏:今、明かす「天罰発言」の真意 〜 「いつから日本人は自分のことだけ考えるようになったんだ」』という記事です。ネット版なので、いつまで正確に表示されるかは不明ですので、少しだけ内容に触れながら掲載します。



日経ビジネス電子版『石原慎太郎氏:今、明かす「天罰発言」の真意 〜 「いつから日本人は自分のことだけ考えるようになったんだ」』
(記事引用元 > https://business.nikkei.com/article/interview/20150302/278140/032800006/



多くの批判と都民をはじめ、ひとりひとりの国民からの個人的な要望や意見、さらにマスコミなどによる報道のすべてに対し最善策を適えるのは、確かにいつの時でもほぼ不可能なことであることは、歴史や人間という種の特徴を鑑みても理解できます。

その上で、なにが最善であり、また「最前」としての最優先なのか。それを行うのが、本来の政治というシステムであり、その謂わば管理者となった者においては、常に有益性についても踏まえねばならないことは任務でありながらも、特に有事ともなれば、そこにある有益性とはまさに第一に人命にあると言い得ます。

その中でも緊急である決断を余儀なくされる事態下において、ある意味で、強行策や自己犠牲なども、本来の人間の特性上は、生物や生命として、理性よりも衝動よりも先に、利他性とも言える言動が咄嗟に行動してしまうものだと、私は思っています。


人間スイッチが作動するとき

私の経験談なのですが、夜間の帰宅途中での出来事で、車の来往が多い一車線の街道の歩道を友人と歩いていると、たぶん30メートル程先あたりで、道を横断しようとした人が、ちょうどセンターラインの一歩手前あたりで突然倒れた姿が目に入りました。

夜間ですので、暗くて詳細はわかりませんが、既にその車線には車のヘッドライトがその場所まで近づいて来ていました。ライトのせいで眩しくて余計に状況は不明瞭でした。ライトを背に人間が倒れていくシルエットだけが目に入ってきた情報でした。

その時、私は咄嗟に、思考よりも早く走っていました。手に持っていたスーパーで買い物していた袋をその場の歩道に手を離して落とし、とにかく駆け寄っていたのです。そして、倒れている方に声をかけて、友人と共にそのお方の上体を起こし、どうにか歩道まで連れて来ることができました。

ご高齢の男性で、身長も体格もかなり大きかったため、かなり大変でした。話を聞くと、元プロ野球選手の方でした。どうりで…かなり重いわけです。とにかくその時は必死でしたが、スーパーで買った卵は割れちゃいましたけどね。あとで一緒にいた友人は「あなたがそういう人で良かったよ」と言われました。

確かに、後で情景を思い出しましたが、他にも数人の歩行者が周りにいましたが、私たちの他はただ周りから見ているだけでした。そしてなによりも車の運転手は、降りても来ず、窓も開けず、ただずっとそこに停車して、避難が終えたら、すぐに走り去って行きました。しかし、ずっとヘッドライトが照らし続けていたので、救助時(大袈裟?)も助かったのは事実です。

さて、突然の思い出話でしたが、なにを言いたいのかというと、つまりは、人間にはそのように「咄嗟の行動」という『最前線での最善に反射的に対応する』という半ば無意識下での能力を備えているものではないだろうかということです。私はそう信じているのですが、条件というか、そのスイッチが入るかどうかということには、やはりその個人の中の、ある“何か”が、オンになっているか、オフになっているかという条件があるのではないかと推測します。

そのスイッチのオンオフがなんたるかは、ここでは追求しませんが、感覚的すぎて申し訳ないですが、過去の人生を振り返って、このスイッチがオンの人とオフの人では、雲泥の差があると私は感じながら生きて来ました。それは職種や学歴や収入の差などでもなく、異性からのモテ度や寿命の長さなどとも一切関係ありませんが、それは確かに「生き方」などにははっきりと違いがある気がします。

昨今では「やる気スイッチ」という言葉がありますが、そのような“意識的”なものとは異なり、動物にある母性や父性などに近いもので、あえて名づけるのなら率直すぎますが、まさに『人間スイッチ』が適していると感じます。その「オン」の人。石原慎太郎さんも、私の感覚では確実にスイッチをオンにしている一人だと思えます。

つづく ──

20210713



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