この世界の凡てはフィクション 《さよなら商業デザイナー(8)》
この世界の凡てはフィクション
── 人は「不都合なご縁」によってはじめて「ありのままの自分」を見つけ出していくための気づきと出会える。
ありがたいことに、たくさんの生きづらさを感じる世界と、きっととてつもなく我が儘な自分という、私がなによりも苦手に感じる不都合なご縁という「不都合な自分」と出会えたからこそ、今の自分があるのでしょう。
おかげさまで、約20年余りの歳月を経て、私は今度こそ(これまでよりは少しだけ)自分になれるのかもしれません。「なれる」という表現よりも、それは詩的に叙情的感覚で『自分に戻れる』というほうがふさわしいのかもしれません。
そしてここまできて、とても難問があります。というかまさに「不都合」を感じています。それはまさに、この文章はどうしてこうなってしまったのか。私はいったい何を書いているのでしょう。という思いです。
今日は、徒然と随想的にただただ書き流します。
そもそも主題としては「さよなら商業デザイナー」として、職業のひとつである広告等を主体とする商業デザインの業務を引退するために、これまでの経緯や心情を書き表し、自分の中で再認識をして整理をするために書き始めたのが本分です。
自分の中で設定した3月末期限。それまでは本当は現在は違う気持ちや心情でいる自分がいたとしても、あえて過去の自分の視点から現実的に書いてみたかったのです。しかし、内容は心理的な分析のような物書きになってしまって、そんな自分に預けて放っておいたら、そんな始末です。
書き出すことにより、人生や仕事などの不満のようなものが吹き出してくるのではないか。そこに本質の自身の気持ちや思考を捉えることができるのではないか。という謂わば「引退の理由とその犯人」を探し出しハッキリと決別するという筋書きが最初はありました。
筋書きの想定があるということは、結局フィクションなんですよね。心情を赤裸々にとか、全部言っちゃうとか、そんなことを売りにしている暴露的な書物もたくさんありますが、あの吉田兼好の「徒然草」にしたって、結局はフィクションと言えてしまうものです。
報道でもドキュメンタリーでも、たとえ日記などでもすべては、表そうとした時点で、必ずどこか創作されてしまうのが、人間の文章であり、写実的な絵画も報道写真でも、やはり画角になにを収めるのかによって、それは脚色され演出効果をデフォルメしているのです。
人間の世界にノンフィクションは一切存在しないのです
人がなにかを表そうと、または伝えようと意識した時点で、必ず表現とは、その者の感覚と意図により演出されてしまいます。また、それを受ける人の感性や捉え方によっても事実は都合よく捏造的なトランスレーションによって変換され解釈されてしまうものです。
即ちそれは、大げさにおおまかに言うのなら、ここに書かれていることは、結局、すべてはわたしの「言い訳」なのではなかろうか。
書き進めてはきましたが、ここに来てたぶん最大の「不都合」にぶつかりました。そしていま、こんなことを書いていながら、実際はまた変更した筋書きを考えてしまっているものです。たとえそれが無意識だとしても。
「理由」と称して、まるで過去を作り直すかのように「言い訳」で塗り直しているのではないだろうか。
もしもそうであったのなら、それは本意ではない。しかし、「この世界の凡てはフィクション」それは確かにそういうものだろう。
ならば、私はいったいなにが書きたいのか。そして、思うのは「自分」という人間の内面にはいったいなにがあるのか。というよりももっと率直に、私は何を望んでいるのか。
私を引退に追いやった犯人を捕まえて、それをどうしたいのだ。犯行のすべてを洗いざらい書きなぐり世間に知らしめたいのだろうか。それとも、そんな犯人像をあぶり出し、自身の身の潔白でも証明したいのだろうか。
犯人は誰なのか?それが人物であるならば、既にここまでの内容で何度でも登場している概念が、その犯人を容易に特定していると言えるだろう。
紛れも無く、その犯人は「私」なのだから。
しかし、そんな筋書きではなかった。なぜなら私は、犯人を許してあげたいからこそ、この文章を書き始めたからである。
では、私が望んでいるのはなんだというのか。
この世界の凡てはフィクションなのであるならば、いまとなれば、いかようにでもそれはできるだろう。
ノンフィクションな自分を取り戻す
「犯人は自分だった」── しかし、そんな筋書きではなかった。なぜなら私は、犯人を許してあげたいからこそ、この文章を書き始めたからである。
ならば私は、言い訳ばかりの正当化フィクションを文章化して、過去を塗り替えようとしているのだろうか。
── では、私が望んでいるのはなんだというのか。この世界の凡てはフィクションなのであるならば、いまとなれば、いかようにでもそれはできるだろう。
最初に「思考や心を書き出すための練習になればいいなと思っています。」と記しましたが、本当はそんな練習をしているつもりなのです。もう数年前から書きたいことがいくつもあって、いまのこれらの文章は、それらのための練習でもあります。
しかし、ただの練習ではなく、次の方向へ進む前に、どうしても思考や心の中に不要な要素や感情や経験があることを、自分で感じていたのです。それをまず解決しなければ、せっかくちゃんと書きたいことや進路も邪魔をされてしまうのではないかと感じて、そのような心の中の取捨や整理をしようと思い、いまのこれを書き始めました。
もしかすると、そんな本題にストレートではないにしても、こうしてなにかを自分に預けて、自由に書かせてみたところ、きっと私の中の私が少しずつ解消してきたのではないかと、この頃、自分で感じるのです。
そして、そんなこともやはり、なにかの拘りや踏ん切りの付かずに、これまで放置していた「不都合な自分」に、少しでも向き合ったことによって変化が起きてくるという、まさに「不都合の恩恵」だと感じます。
自分のルールが世界のバランスを崩している。
自分の中のしこりやトラウマのような何かが解消していくにつれて、ここ最近の文面が、次に私が書きたかった内容の一部に近くなってきてしまっているのを自覚しています。しかし「過去の視点」という、ここの筋書きとは別の世界なのです。それを少しだけ、困ったと思っている自分がいます。
しかしそれは素直じゃないですね。ことごとく自己意識に乗っ取られているような自分を感じます。そういう拘りやルールというのは自分の中で自分を縛り付けてしまうのですよね。
子供のように無邪気に、いますぐ変容してしまえばよいものを、そうもいかないのが現実という経験が邪魔をするのです。それを社会では「責任」や「大人」とも呼びます。本当は誰にも要求も要請などもされてもいないのに、自分の中でなぜか勝手な思い込みに捕われてしまっている。
だから楽しめない。だから言い訳のように言動さえも縛る。それを他者世界に原因を擦り付けたりもしたくなる。そして意味有りげに反発のような思考や言動も出て来てしまう。そのうち自分がわからなくなる。
何重にもいびつな世界を形成して、自分の本体を守ろうとルールを作り、ルールに沿って安心する。
生きていて、なにが好きで、なにをしているのが楽しいだとか、本当にわからなくなっていく。それを強いているのは、紛れも無く勝手な自分の世界観だというのに。
なんかどんどん書き出してしまいそうなので、この辺で、一旦、そんな自分自身の首根っこを抑えて、ちゃんと一度は締めるまで書かせようと思います。
まるで、自由奔放な自分の本体を、社会や世間やに生きる外界向けの表層の自分が、「こらこら、ちゃんと片付けてから、遊びに行きなさい!」とたしなめるかのように…
… ほら、それ。まさに、 そういうことなのですよね。そのようにして、自分の本当の気持ちを押さえつけ、ルールに沿わせて、何度も無視することで、自分はどんどん小さく震えるように存在がおぼつかなくなるものなのです。
ルールとは外的自己のみが定めたものであり、内的本体にはルールは存在しない。
そして外的自己とは、謂わば「社会的自分像」であり、それは「社会から要請された人格」とも言えます。しかし、その社会という共通概念の実体はまさに「共通幻想」そのものです。即ち「社会的自分像」とは、自身が勝手に自分に脚本を強要し、また勝手にそのルールに適した脚色を演じたペルソナの一部に過ぎません。
念のため申し上げておきますが、ここで言う「内的本体」とは、一般的に定義される「自我」とは別物です。簡単に言えば、自己や自我よりももっと無意識に近い存在としてあえて「本体」という表現をさせていただいています。
なにを言いたいのかというと、これまでの私は、大きく分けると「相対的な2人の自分」が存在していたのです。
主題の内容に合わせて表すのなら「辞めたい自分(常に変化する自分)」という内的本体と、「辞めない自分(変わらない自分)」という外的自己が戦っていたのです。
それは「意識」と「無意識」、「社会人」と「プライベート」、「仮面」と「素顔」とも表せるような、外界の社会や世間の常識に当てはめた限定的な「外的自己」という一種のキャラクターと、それこそ先述したありのままの自分とも言えるような「内的自分」という本体。
「ペルソナ」と「本体」そのバランスが崩れてしまっていたのです。
人間の世界には、様々な名称や状況がありますが、刑法などにある犯罪名も、医師が名付けてくれる疾患や精神状態などにおける病名なども年々、名称の数が増加していきますが、そんなこの世界の「生きづらさ」の理由の殆どは、このバランスの偏りから生じる「アンバランス」によるものだと感じます。
思えば、そんな自己と自我のように相対からなる自分のアンバランスさを矯正するために、わざわざ練習をしないといけない程に、いつしか私は、自分が自分で在ることを恐れるようになり、言い訳で世界をデザインしてきたのかもしれません。
なにを書きたいのか。なにを望んでいるのか。その答えはきっとそれです。ないがしろにしてきてしまったノンフィクションな自分を取り戻したいのです。そしておかしな表現ですが、そんな自分を感じ、謝りたい思いです。それほどに長い間。
私はきっとフィクションに慣れてしまっていたのだと思います。
つづく ──
20170315 10:22
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