この連休は、机のまえに座れるときは、いくつかの準備のために詩集や詩を読んでいた。
人の詩を読むのは、慣れない舟に乗り込み、見知らぬ波間に揺られるようで、やはり緊張する。
とくに自分のとはまったく異なる詩想や書法の詩を読むときには。
その合間に詩とは関係のない小説を読んだり、外出したり。また詩に戻るために、ひとつ前の記事にも書いたように伊藤悠子さんの詩集を読んで、気持ちを初期化したり……。
数冊読んだところでまた止まり、自分にとっては「読む喜び」を純粋に与えてくれる入沢康夫氏のとくに初期の詩集を開いたり。学生の頃に購入して以来本棚にある『世界の詩論』(青土社)という本をぱらぱらとめくっては、「現在」の詩集をふたたび読み続けた。
そして人の詩を読みながらも、言葉を動かす感覚を忘れないように、短い詩を書いたりもした。
詩を読む以上に、詩を書くのはやはり、面白い。
書きながらでないと見えてこない言葉の岸辺がまだたくさんある……と感じる。
詩はつねに謎めいていて、いつまでも捉えがたいもの。だから、「どう書けるかな……ほんとうに書けるのかな……」と、たぶん10代の頃から毎日考えていても、飽きずにまた今日も考えてしまう。
少しずつ、手探りしながらでしか進めない波間、見えない岸辺。だから詩作はいつまでも難しく、面白いのかな……とも。
連休の終わりに。今日開いていた『世界の詩論』から、自分が「面白いな……」と感じる部分を、少し引用したい。
フランスの数人の詩人の、それぞれの言葉の波間を漕ぐときの櫂のようなフレーズを。
最初に、ジャン・コクトー。
つぎに、ピエール・ルヴェルディ。
そして、ロジェ・カイヨワ。
……そうかもしれない。この通り道以外の道を行っても、満足することはないのかもしれない。
なぜ、あのとき、あの角から離れ、遠ざかったのだろう、と後悔することはあっても。
わたしも、自分が自由に選んだ舟と櫂と、その先に広がる海をまえに、改めてそう思う。
→メモ:わたしはわたしの言葉だけに属している(ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』)