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『世界の詩論』からのメモ。連休の終わりに…

 この連休は、机のまえに座れるときは、いくつかの準備のために詩集や詩を読んでいた。
 人の詩を読むのは、慣れない舟に乗り込み、見知らぬ波間に揺られるようで、やはり緊張する。
 とくに自分のとはまったく異なる詩想や書法の詩を読むときには。

 その合間に詩とは関係のない小説を読んだり、外出したり。また詩に戻るために、ひとつ前の記事にも書いたように伊藤悠子さんの詩集を読んで、気持ちを初期化したり……。  

 数冊読んだところでまた止まり、自分にとっては「読む喜び」を純粋に与えてくれる入沢康夫氏のとくに初期の詩集を開いたり。学生の頃に購入して以来本棚にある『世界の詩論』(青土社)という本をぱらぱらとめくっては、「現在」の詩集をふたたび読み続けた。
 
 そして人の詩を読みながらも、言葉を動かす感覚を忘れないように、短い詩を書いたりもした。
 詩を読む以上に、詩を書くのはやはり、面白い。
 書きながらでないと見えてこない言葉の岸辺がまだたくさんある……と感じる。

 詩はつねに謎めいていて、いつまでも捉えがたいもの。だから、「どう書けるかな……ほんとうに書けるのかな……」と、たぶん10代の頃から毎日考えていても、飽きずにまた今日も考えてしまう。

 少しずつ、手探りしながらでしか進めない波間、見えない岸辺。だから詩作はいつまでも難しく、面白いのかな……とも。

 連休の終わりに。今日開いていた『世界の詩論』から、自分が「面白いな……」と感じる部分を、少し引用したい。
 フランスの数人の詩人の、それぞれの言葉の波間を漕ぐときの櫂のようなフレーズを。

 最初に、ジャン・コクトー。

 真の詩人は、ポエジーに無頓着である。同じように園芸家は、薔薇を匂わせようとしない。彼は薔薇にその頬と息とを完全にさせるような栽培法を施すだけだ。

ジャン・コクトー「職業の秘密」(佐藤朔訳)より

 僕たちのよき涙は、悲しいページのために流れるのでなくて、適所に用いられた一つのことばの奇蹟のために、流れる。こういう涙を流すのにふさわしい人は、ごく少ない。ポエジーがごく少数の人しか感動させないことはありうる。僕は前にポエジーは贅沢の極致であると云ったではないか。
  詩は、モティフをなすものとそれ自身を結びつけているすべての網を、一本ずつ捨て去らなくてはならない。その一本を断ち切る毒に、詩人の心は、鼓動する。最後の網を切り離してしまうとき、詩は解放され、ただそれ自身の美しさを持ち、地上となんらのつながりもなく、一個の軽気球のように上昇する。
 奇妙な言葉、形容詞、誇張、ピトレスクなどが、詩の上昇の妨げになることは、僕がわざわざ教えるまでもあるまい。

ジャン・コクトー(同上)

 つぎに、ピエール・ルヴェルディ。

 詩は語によって、語という唯一の助けを借りて固定する。そして詩の暗礁、それは語である。最も美しい詩を殺すには唯一つの語で十分だ。

ピエール・ルヴェルディ『乱雑に』(高橋彦明訳)より

 詩人は思想や感情や自身が用いる語によく注意し、書くときにはとくに現実と自分の夢を決して混同しないようにしなければならない。なぜならばそのときはおよそ画家が絵具を食べ始めたようなものだから。

ピエール・ルヴェルディ(同上)

 現実というものは、その現存によって詩(ポエジー)を殺すものとなりーーその不在によって詩の源泉となる。詩、それは不在である望ましい現実の底知れぬ口である。

ピエール・ルヴェルディ(同上)

 そして、ロジェ・カイヨワ。

 私は表現できないものを表現するなどと主張しませんでした。私はただ、他の言語では十分効果的に伝えることができないようなものを、私の詩によって伝えようとしただけです。

ロジェ・カイヨワ「詩法」(佐藤東洋麿訳)より

 人間の夢とか錯乱とかが私の詩に入りこんでいるのは事実です。しかしそれは、私の詩が一つの名辞、一つの形態、一つの意義、を持つためなのです。私は夢や錯乱の特質である混沌を整理しました。私はそれらが逃げさるのを捉えました。それらは、私の言葉の中に定着されたのです。

ロジェ・カイヨワ(同上)

  私は自分の道を自由に選んだのです。だから私は挫折したからといって嘆くことはないでしょう。仮に他の道を行って成功したからといって、私はそれで満足することはなかったでしょう。

ロジェ・カイヨワ(同上)

 ……そうかもしれない。この通り道以外の道を行っても、満足することはないのかもしれない。
 なぜ、あのとき、あの角から離れ、遠ざかったのだろう、と後悔することはあっても。
 わたしも、自分が自由に選んだ舟と櫂と、その先に広がる海をまえに、改めてそう思う。

 

 

 

『世界の詩論』(青土社)


 
 
 
 

 
 
 
 

→メモ:わたしはわたしの言葉だけに属している(ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』)