峯澤典子 Noriko Minesawa
その日ふと思ったことや好きなもの。 読んだ本の数行などを写す「メモ帳」として。 いつも持ち歩いているノートのかわりに。 ひとつの微風くらいの気軽さで記録。
noteに載せた詩作品をまとめて。
エッセイや詩に関するお知らせ、記録など
日々読んだ詩集や、好きな詩についての書評・感想など。
詩や詩作の周辺や日々思うこと。大切なものたちをめぐるエッセイとして。不定期更新中。
人と人との、人と作品との出会いは偶然という名の「必然」によるものが多いと思う。ふとしたきっかけで手に取る、教えられる。何気なく出かけた先で紹介される、たまたま同じ場所にいた、など。 逆に言えば、ふさわしいときにふさわしい人と、作品と出会うのだから、無理に求めなくてもいいとわたしは思う。タイミングがすべて、だと。 たとえば、人から本から、早急に何かを得ようとしても、こちらに柔らかく吸収する土壌がなければ、慈雨も深く沁みてはいかない。 人と人との、人と作品とのタイミング
今年の秋に発行した詩誌「アンリエット」。 ここにどんな詩が並ぶのかは具体的には言えないのだけれど……。 一つの鍵となる気配のなかに複数の時間や風の流れを入れてみよう……と意識して手を動かした詩篇がいくつかある。 第四詩集『微熱期』とは少し違う、言葉の置き方と重力と、息遣いで。 そういう微調整は、たとえば料理をするときや絵を描くときの感覚に近いのかもしれない。食材の切り方や調味料の量を微調整し、煮込む時間も変えてみる。もしくは、パレットのうえで溶かす絵の具の数と水の
何冊かの詩の入門書を開けば、戦後からいまへと注ぎこむ現代詩の流れと、各時代の詩のおおまかな特徴を知ることができるだろう。たとえば戦後の「荒地」派の「戦争の記憶」から、五〇年代詩の「感受性の祝祭」を通過し、六〇年代詩のより過激でアナーキーな言語の地平へ。 そのように前の世代の形式や内容を継承し、あるいは批判し、変化し続けること。いつの世にも詩はそう望んできたのかもしれない。現在でもなお、どんな詩の言葉も過去の詩とどこかでつながりながら、時代の動きに沿って変容し続けているのだ
髙塚謙太郎さんと峯澤典子の詩誌「アンリエット」。 9月28日に通販サイトのBOOTHと、七月堂古書部さん、葉ね文庫さんで販売を開始しました。 発売からまだ一週間も経っていませんが、すでにnoteに「アンリエット」についての記事をお書きくださった方もいらして。 ほんとうにありがたく思っております。 X(Twitter)でも、さまざまなご感想をいただいております(そのつど、感謝を込めてリポストしております)。 詩誌到着後すぐにお読みくださり、詩誌の写真とともにご感想を記してく
髙塚謙太郎さんと峯澤典子による二人誌「アンリエット」。 1号「湖底に映されるシネマのように」を刊行しました。 noteにもこの詩誌の制作については何度か書いてきましたが、髙塚さんと、デザイナーの吉岡寿子さんのおかげで、とても充実した内容と、エレガントな姿の一冊に仕上げることができました。 詩は散文詩、改行詩合わせて17篇。論考が2篇という、詩誌というよりは二人の書き手の「詩集」「作品集」と呼ぶのがふさわしい質とボリュームになりました。 髙塚さんの作品を読むと、わたしはいつ
わたしが生まれるまえ ながいゆきみちで 暖を取るためにまだ若い母が燃やした手紙を けさも 夢のなかで読もうとしていた 真白い紙のうえの 凍ったゆびの跡にいくら目を凝らしても 幸うすい紙と紙のあいだに落ちたゆきの数文字は読めない わたしよりさきに生まれなかったひとが 空を渡ったのは数十年まえ いえ、きのう きょう それともあした はつあき はつしも はつゆき は いつのこと ゆびを折って数えるのがいちばんたしかなはずなのに 夢のなかでは ゆびのありかがわからず よわい紙の肌と肌
最近、「『アンリエット』を楽しみにしています」「もうすぐ完成ですね」と数人の方から言われた。 わたしがいま詩誌を制作していることをご存じなのはありがたく、別件でやりとりしながらも、そのことをメールにわざわざお書きくださるのは温かい……と嬉しかった。 詩誌「アンリエット」は、以前noteの記事にも書いたが、髙塚謙太郎さんとの二人誌だ。 昨年制作した個人誌「hiver」では、わたしもゲストも、執筆する詩篇の数や長さは自由に好きなだけ、とした。 この「アンリエット」にお
毎年、春先から繁忙期に入る勤務先の仕事はいったん夏には落ち着く。だから今月と来月は他の季節よりも有休をとりやすい。明日も休みをもらったので、少し夜更しして映画を一本観たあとに、たまに読む小川国夫のエッセイ集を開いた。 先週たまたま本棚を整理中に手にとったこの作家の『逸民』を再読したらやはり面白かった。 読後の走り書きのメモを見ると、こんなふうに書いていた。 「どこか既視感のある筋を追うというよりも、瞬発的なある種の衝動や迷いや熱狂の発火点を掬いつつ、けれどそれらを客観
黴臭く重い半纏にくるまれてはいるものの、北風が木戸をゆらす明けがたには頰の冷たさにふと目覚めることがあった。すると、二階のすみのほうから咳が聞こえてくる。それはいつもすぐには止まらず、ときおり風のするどい悲鳴にもかさなり、ぼくは怖くなって泣きだしてしまう。泣き声が高まれば誰かがとんとんと階段をかけあがる音がし、二階はしずかになる。 入ることを禁じられた奥の部屋にもう長いこと臥せっているのが母というものだと知ったのは、ぼくがようやく、しゅ、べに、あか、ひ、だいだい、き、しろ…
真夏の連休は山のふもとにある家で、本をひらいたり、料理をしたり、眠ったりし、あとはときどき降る雨の音を聞いていた。 東京都内で強い雨がつづくと、すぐに電車の状況を調べたり、さまざまな場所で働く知人たちのことを思ったりと。純粋に雨粒を眺めたり、その音を聞く余裕もなく、雨が暮らしにもたらす影響へと、心はせわしなく向かう。 しかしふだんの暮らしから少し離れた場所で過ごす数日のうちに。雨音を聞くことができた。聞きながら、留守番の家のなかでひとり、降りつづく雨を聞くのが昔から好
ゆずりはすみれさんによる 「ひとり ひとり に 出会う ~はじめて詩集を読む会」 (静岡市鷹匠町のヒバリブックスにて開催)。 その第三回の会で。 わたしの三冊めの詩集、 『あのとき冬の子どもたち』を取り上げていただきました。 丁寧にお読みいただき、大変ありがたく思っております。 その会についての、詳しいご感想の記事もあり、嬉しく拝読しました(参加された大村浩一様の記事)。 一冊のなかの時間の流れや展開、余白、リズムのずらし方、レイアウトについてなど。みなさ
夏休みの日記のようなメモとして。 秋刊行の詩誌に載せる詩を書き終えてから、それらの作品と、これから書いてみたいことの間にあるものが何なのか、いろんな小説や詩を読みながら少し考えていた。 たとえば、白と呼ばれる色彩があるとして。 わたしがよく眺めている、鏑木清方の「朝涼」という絵には、ひらき切るまえの蓮の花の近くに、編んだ長い髪に左右の手で触れながら(何かをひたすら思うように)、おそらくゆっくりと歩く少女がいて。 まっすぐに前を向く横顔の、唇と耳のほのかな明るみに
わたしの親しい人たちは、賑やかな街を照らしつづける明るい灯というよりも。たとえば冬の帰り道に、かじかむ指に息を吹きかけながらふと空を見あげたときに。こちらの帰りを待っていたかのように、一日の終わりや季節の始まりを教えてくれる小さな星に似ている。 遠い場所で。彼らが彼ららしく一日や季節をめぐり、何かを感じ、眠り、また目覚める。そう思うだけで、こちらの暗がりの一部が明るむ。そんな交わりの星たち。 誰かと親しくなる。それはどういうことだろう。それはどんな悩みでも告白し、もた
秋刊行予定の詩誌の原稿も書き終えたので、好きな本を読んだり、映画を観たり、気持ちだけは先に夏の休暇のなかにいる。 数年前までの夏には、よく野外ライブに出かけた。そのときもよく聴いていた曲を室内や車内で流しながら、あの野外の風や空の広がりをふと思い出す。 木蔭とステージ前を自由に行き来しつつ、氷をたくさん入れたハイボールやサイダーなどを飲み、少しずつ暮れてゆく空の青とともに移ろう音楽を全身で味わっていたときの、素直な嬉しさを。 あのとき、雨あがりのステージでドラムを叩
夏休み。若い人たちと話をする機会があり、自分の10代の頃を思い出していた。それで、少しその頃のことを書いてみたいと思う。 (定期的にわたしのnoteを訪ねてくださる方や、ご縁のある方にお読みいただけたらと思うので、Xでは無理に告知せずに……) ・・・・・・・・・・・・・ たとえば、どこかの詩誌や雑誌のために詩や書評などの文章を書くときは、編集者が最初の読者になってくれる。それが無事に掲載されれば、見知らぬ人たちも読んでくれるかもしれない。 発表する以上、それが誰かに
7月13日(土)~8月4日(木)。 東京・豪徳寺にある七月堂古書部さんにて。 髙塚謙太郎さんと峯澤典子の「夏の詩」が展示されます。 店内に展示されるのは、書下ろしの詩一篇と、過去に書いた「夏の詩」。 過去の詩は、髙塚さんは四篇。わたしは三篇です。 わたしは、現在ではあまり出回っていない第一詩集『水版画』から、すべて選びました。 「空蟬」「水しるべ」「出発点」の三篇です。 各篇に書かれる情景や、それぞれに込めたものは違いますが、おそらく「雨の気配」がどの詩にも漂っていて、そ