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自分の意思は自分だけで決めているものではないらしい

人間は自分の意思で自分を規定しているつもりでいるが、多分、無意識の身体の使い方や無意識の言葉の使い方のほうが、正直に結果と結びついている。

何かのプロセスや結果は、脳とこころと身体の三つのセッションの賜物のようなものかもしれない。

いくら明るくしようと思い、そのように努めているつもりだったとしても、表情が硬かったり、口角が下がっていたり、声に張りがなかったら、身体には明るさがない。
あるいは、「やります」と言いながら「でも」「しかし」などで始まる言い訳が続くと、言葉にはやる要素がみあたらないし、こころとはズレている。

往々にして、人間は本人以外は敏感に、意思と身体・意思と言葉の矛盾をかぎ取り、不一致感によって、相手とのコミュニケーションを変えていく。

余りにもこれらのギャップが慢性的になってしまうと、感覚は鈍り、ストレスに気づかぬまま、「なんだかうまくいかない」の長期化に慣れてしまう。

本人自身も、この不一致感を脳がストレスとして受け取り、過剰な場合は気分や体調の不調と言った形にして、自分自身とのコミュニケーション(あるいはミスコミュニケーション)が生まれるのではないかと思う。

硬くなった身体や心は、五感の鋭敏さも失わせ、時には「自分にはストレスはない」と錯覚のまま、がむしゃらにもがく毎日を過ごすこともあるかもしれない。

身体の疲れを無視して頑張ったり、感情を押し殺して理屈だけで自分を制御しようとしたり、周囲を巻き込んで望まない結果となったり。
脳とこころと身体は相互に作用しあう。

自分の奥にある意思を丁寧にみていくと、その時に起こる身体のゆるみやこわばり、感情のよろこびやおそれ、言葉の獲得と解放への気づきの始まりになる。
そこで感じることや見えるものをそのままに俯瞰して、少し超えてみるとニュートラルで自由な感覚を味わえるかもしれない。

ここにいるのは自分。
おおきくもありちいさくもある自分。
おおきくもなくちいさくもない自分。
ただただ、いる・ある、というだけの自分。


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