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「生きた証を残す」って、つまりどういうこと?

今日は、風に揺れる藤のような紫の花を見かけ、ふとおばあちゃんのことを思い出した。

今年の初めに亡くなったおばあちゃん。小さい頃から大好きだったおばあちゃん。おばあちゃんがもうこの世界にいないという現実が、今でも信じられない。それでも、それが事実。この不思議な感覚に、生と死の意味について考えさせられる。

おばあちゃんと過ごした時間はかけがえのないものだった。でも、日常の中で思い出すことはほとんどない。涙を流すこともない。
おばあちゃんが、私たちが悲しむことを望んでいたとは思えないが、こんなに「いない」現実に向き合っていない自分を見たら、どう思うのだろう。そもそも、おばあちゃんは何も望んでいなかったのかもしれない。

私は、海外に住んでいるから、最期に立ち会うことも、お葬式に参加することもできなかった。それらはひょっとして、現実に向き合うために必要な工程だったのかもしれない。スキップしてしまった私はこのまま現実に向き合えずに、ふわふわした違和感と悲しさのやり場のないまま、過ごさなければならないのかも。

生きることや死ぬことに意味はあるのだろうか。私は、自分が残す人たちにどう感じてほしいのか、どう生きれば悔いがないと胸を張って言えるのかを考えてこなかった。
私の亡き後、私の生き方から彼らになにを感じてもらいたくて、どんな生き方をすればいいのだろうか。もちろん、誰かのために生きるわけではないけど、何かを人の心に残せる存在になりたいとは昔からうっすら思っている。

日常の中で、ふと風に揺れる藤の美しい花を見て思い出されるような生き方が、もしかしたら正解なのかもしれない。

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