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共感と距離感の練習

『共感と距離感の練習』は、小沼理さんによるエッセイ集。日常的に抱える共感と距離感についての葛藤を繊細に描いた作品だ。クィアとして、そして男性として、他者や社会との微妙な違和感や摩擦を感じながら生きてきた経験を通じ、表面的な共感の在り方や関わり方について書かれている。

「わかる」なんて簡単に言えない、「わからない」とも言いたくない

誰かの痛みや怒りや悲しみが、まるで自分のことのように思えることがある。乳化した水と油のように混ざり合ってしまう。だけどあなたはあなたでしかなく、私は私でしかない。他者同士である私たちが、重なったりずれたりしながらともにあるための、「共感」と「距離感」。その可能性と難しさについて。

内容紹介より

誰かの痛みが自分のことのように感じられても、あなたはあなただし、私は私。その繋がりと距離の間で、私たちはどう在るべきかを問いかける。自分がどこに立ち、何を選ぶのか。ふと自分の日常を振り返り、まわりにある見えない「線」について、気づかされる。

私も普段「わかる」と言いがちだが、本当は「わかりたい」という思いから発しているのかもしれない。相手を傷つけるつもりはないが、その共感が浅はかなものではないかと悩んでいた時、この本との出会いは「自分ひとりではないんだ」と感じさせてくれるものだった。

印象深いフレーズたち

たまには羽を休めてもいいけれど、そればかりになっていないか。多くの人が積み重ねてきた蓄積があり、どんな立場を取るべきか明白なものに対して「それぞれの正義」などと安易に相対化していないか。

P11

私は自分の考えや立場を表に出すスピードが遅いし、得意ではない。なにも固まっていない時に表に出すのが怖いというのもある。ただ、自分が心地よいからそうするのではなく、過去に戦ってくれた人や今も声をあげてくれている人たちと共に声をあげられることはあげたいと改めて思う。

一人ひとりの生は、もっとずっと膨大で豊かだ。私は、その豊かさを誰もが普通に出会える世界を生きたい。そのために、できることをしていきたい。全員が無防備な言葉で、誰にも妨げられることなく、自分について語り出せるように。

P205

日本はキャラ消費が得意だから、実在する人間に対しても◯◯キャラとして扱うことを「多様性を認める」としている節を感じる。それは歩み寄りの一つの方法かもしれないし、否定はしない。だだ全ての人が無防備の状態で、語りを止められず、そのまま生きていける社会にしていきたい。

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