負け犬の遠吠え 明治維新④黄金の国ジパングの終焉
江戸幕府はペリーとの交渉で堂々と渡り合い、条約を結ぶことによって「開国」はしたものの、「通商拒否」というこちらの要求を通す見事な外交手腕を見せました。
しかし国を開いた以上、列強の思惑が渦巻く激流の中に放り込まれたも同然です。
幕府はこれからの難局に対応するため、従来の枠組みにとらわれない人材登用を行い、外様大名とも連携を取るようになりました。
さらに、武芸訓練所や海軍伝習所を作り、反射炉を作って大砲の製造をするなど軍事面でも強化を行いました。
これを安政の改革と言います。
その中で登用された人物の中に、「岩瀬忠震」や「勝海舟」の名前がありました。
開国してから2年後の1856年、欧州を中心に繰り広げられていたクリミア戦争が終わると、今度は清国でイギリス、フランスを相手に「アロー戦争」が起こります。
これは第二次アヘン戦争とも言うべきもので、清はさらに列強によって食い荒らされました。
清は国土が広いために国家としての形はなんとか残っていましたが、実情は半植民地、列強の属国状態になりました。
安政の改革で登用された「岩瀬忠震(いわせただなり)」は、ペリーとの交渉を任され、見事に言い負かしたあの「林復斎」の甥っ子です。
彼は、イギリスの目がアジアに向けられ、日本に圧力をかけてくるだろうと見越して「日米関係の強化」「幕府の弱体化阻止」を重要視しました。
日米関係の強化のためには「通商」を認めなければなりません。下田の総領事館「タウンゼント・ハリス」は大阪の開港、通商を求めていました。
しかし当時の日本の経済活動の8割は大阪で行われており、大阪で交易が行われたら益々大阪に富が集中し、幕府が弱体化してしまいます。
岩瀬忠震はハリスを説得し、横浜、長崎、新潟、兵庫、函館で交易を行うことを決めました。
そしてそれを基に「井伊直弼」が天皇の勅許を得ずに「日米修好通商条約」を締結します。
もちろんこれは大問題で、岩瀬忠震はその直後に左遷されてしまいます。
この「日米修好通商条約」は「関税自主権の放棄」「治外法権」など不平等条約として知られます。
しかしこの「日米修好通商条約」の前段階として、先に締結されていた「日米和親条約」に追加協定がハリスによって結ばれていた事も重要です。
「日米追加条約(下田条約)」です。
当時の日本の貨幣は、「天保小判」が使われており、現在の価値でいうと一枚10万円くらいと言われており、800万枚が流通していたそうです。
この小判一枚は金貨として扱われ、香港では銀貨4枚と交換されます。
そして小判の補助貨幣として流通されていたのが「天保一分銀」です。
国内市場では、一分銀4枚で小判一枚と同じ扱いです。しかし、この一分銀には、「一分銀4枚で小判一枚」の価値があるほどの銀は含まれていませんでした。
江戸幕府の威信において「これ4枚で1両だからね!」と国内で通用していた「信用貨幣」だったのです。
当時の貿易決済などで世界的に使用されていたのは「メキシコドル」という銀貨でした。
メキシコドル1枚で一分銀3枚分の重量になります。
そのような「日本の金貨と銀貨のアンバランス」を見抜いていたハリスは、「日米のお互いの貨幣は、同種同重量で交換できるようにしようね」という決まりを作ったのです。
外国の金貨は同じ重量の日本の金貨と、外国の銀貨は同じ重量の日本の銀貨と交換できるようにするのです。
幕府は反対したのですが、ハリスは恫喝して押し通しました。
この協定によって、日本から金が大量に流失することになりました。
メキシコドル銀貨4枚を日本に持って行くと、一分銀12枚に交換できます。そして一分銀12枚を小判3枚に交換するのです。そしてその小判3枚を香港にある貿易会社、マセソン商会へ持っていくと、メキシコドル銀貨12枚に交換してくれるのです。
要するに、「国家の信用」で貨幣に価値を持たせていた江戸幕府と、「金・銀の重量」で貨幣の価値を決めていた諸外国との間にできた経済観の相違からできた魔法の換金ルートなのです。
アメリカ人たちはこぞって日本の金貨を海外へ持っていき、これによって日本の金の8割が失われました。
幕府は金の含有量を3分の1に減らした「安政小判」を鋳造して対策を取りましたが、お金の価値が下がってインフレが起き、さらにハリスが猛抗議をした事により、わずか3カ月足らずで鋳造中止となりました。
このような国内経済の混乱は、江戸幕府をさらなる窮地に追い込むことになっていくのでした。