負け犬の遠吠え 明治維新③ 日米和親条約の締結まで
前回、ペリーよりも一足先に来日し、ぶん殴られて開国に失敗した「ジェームズ・ビドル」さんの話を書かせていただきました。
彼の失敗を重く受け止めた「マシュー・カルブレイス・ペリー」は、現代の価値にして一億円とも言われるほどの膨大な資料をかき集め、日本を研究しました。
当時のアメリカとしては、南北戦争の直前で対外戦争をする余裕などなく、「武力行使」で日本を開国させるのには反対だったのです。
大統領からは「発砲禁止」のお達しが出ていました。
ペリーは対日開国マニュアルを作成し、日本が見たこともない程の巨大な蒸気軍艦を見せつけて軍事力の違いを見せ付けようと考えました。
さて、日本を開国させる準備は万端でしたが、このペリーの動きを察知して日本へ使節を送った国がありました。
ロシアです。
遣日全権使節に任ぜられたロシア海軍の軍人、「エフィム・プチャーチン」は、清に影響力を伸ばすイギリスに対抗するべく、日本と条約を結ぼうとしました。
プチャーチンには秘策がありました。イギリスとの違いを見せつけるため、「紳士的」に振舞おうとしたのです。
ペリーの出港は、プチャーチンよりも1ヶ月遅れることになりました。
ペリーは太平洋を突っ切って日本に来たかのように思われがちですが、併合したばかりのアメリカ西海岸には軍港も蒸気船もなく、ペリーは東海岸のノーフォークから出港する事になりました。
ペリーは、日本に着くまでにウロチョロウロチョロしていました。
「琉球」「小笠原諸島」にも寄港しているのです。
琉球王国は、1609年に薩摩藩に降伏して以降、庇護下におかれていましたが、「琉球王国」としての存続も認められ、清との冊封関係も続いていました。
「薩摩藩が琉球王国を支配していた!!隷属化したんだ!」「琉球王国は日本から独立しよう!!」なんて声すら聞こえてくる昨今ですが、実際には薩摩藩は琉球に軍隊をほとんど駐留させておらず、役人を十数人派遣していた程度でした。
琉球は薩摩藩へ砂糖を売って、そのお金で清へ朝貢していたのです。
1853年5月、ペリーは武装兵士を琉球へ上陸させ、日本への中継拠点として軍艦を常駐させました。
上陸した船員たちは、略奪、不法侵入、傷害、強姦などを行いました。
「ウィリアム・ボード」という船員は、泡盛で酔っ払った勢いで54歳の女性を強姦してしまいました。
住民たちは彼に石を投げつけ、ウィリアムは海に落ちて死亡しました。
ペリーは裁判を起こし、石を投げた人間を終身流刑に処しました。
ウィリアム・ボードの上官たちも強姦を行いましたが、彼らに対する処罰は何もありませんでした。
沖縄の外国人墓地には、いまでもウィリアムのお墓があります。
ペリーは小笠原諸島にも寄港しました。
江戸幕府は、小笠原諸島を国の領土と認識していながら、無人島として放置していました。
するといつの間にか捕鯨船相手に商売をする英米人やハワイ人たちが住み着いてしまっていたのです。
小笠原諸島は、太平洋の要衝としてアメリカやイギリスも狙っていました。
ペリーは小笠原諸島をアメリカの植民地にしようと考えており、調査しに来たのです。
※小笠原諸島はその後、日本の有志の侍達によって日本の領土として守られる事になります。
そして1853年7月、ついに浦賀に4隻の黒船が現れました。
黒船の登場により民衆達は恐れおののいた・・・わけでは全然ありません。
7年前にジェームズ・ビドルが来航したとき、好奇心からか漁船や運搬船などの小舟がアメリカの軍艦に群がりました。
ビドルは海軍の風習として、日本人を乗船させてパンやワインでもてなしたのです。
今回も同じようにもてなしてくれるのだろうと、大勢の小舟がペリーの艦隊に群がりました。
ペリーは小舟が近づくことを禁止しましたが、それでも遠巻きに多くの小船が取り囲んでいたそうです。
陸上からの見物客も多く、黒船まんじゅうが売り出され、「黒船見学禁止」の令が幕府から出されるほどでした。
艦隊の食料・水が不足している事、贈り物を積んだバーモント号が到着していない事などの理由により、ペリーは一旦国書を幕府に渡し、引き上げることにしました。
「開国の返事は翌年」ということで、幕府はこの一大事に朝廷、大名、町人にまで、広く意見を募りました。「これは国家の一大事であり、<通商>を許可すれば<御国法>(国是)がなりたたず、許可しないなら<防御の手当>(国防の設置)を厳重にしなければ安心できない。彼らの術中に陥らぬよう、思慮を尽くし、例え忌諱(きい)に触れてもよいから、よく読んで遠慮なく意見を述べよ」
幕府からこのようなお達しが出されました。
老中達からは800通もの提案書が出され、さらに町人からも意見が出されました。
江戸時代において、幕府はまさに民主主義を思わせるような対応をとっていたのです。
幕府は数々の意見をもって、方針を「戦闘回避」「交易拒否」と定めます。
そして万が一のために江戸湾に砲台を築きました。
※現代も名前が残る「お台場」はその砲台の跡地です。
そして各藩に軍艦の建造を命じ、オランダにも軍艦の発注を行い、国防を強化しました。
ところで話は変わりますが、ペリーより1ヶ月も早く日本を目指したロシアのプチャーチンはどうしたのでしょうか?実は彼は、嵐にあってペリーに追い抜かれてしまっていたのです。
ペリーに遅れをとってもプチャーチンは「紳士的態度」を徹底しました。
ペリーのようにいきなり浦賀に来るのではなく、日本の外交窓口である長崎に入港しました。
あまりにも律儀で紳士的だったので、幕府はプチャーチンとの交渉を長引かせ、後回しにしました。
ペリーの方が脅威だと感じたからです。
それでもプチャーチンは粘り強く交渉を続けますが、そうしているうちにクリミア戦争が勃発します。
プチャーチンが長崎にいることを嗅ぎつけたイギリスの外交官「ジェームズ・スターリング」はプチャーチンを捕まえるべく長崎に入港しますが、すでにプチャーチン率いるロシア艦隊の姿はありませんでした。
クリミア戦争は東洋戦線へも波及しており、イギリスもロシアも、日本に深く介入している余裕がなくなったのでした。
1854年1月、ペリーは再び来日しました。
ペリーとの交渉は、儒学者であり、外交官でもある「林復斎」が当たりました。
アメリカの目的は「親睦」「通商」「アメリカ人漂流者保護」「石炭の補給」です。
「100隻の軍艦が20日以内に日本へ到着する」と軍事力を背景に脅してくるペリーに林復斎は動じません。交渉の傍らでは「礼砲」と称してボンボン大砲が打ち鳴らされました。
そのような「脅し」の中においても、林復斎は真っ向からペリーに挑んでいきました。
「日本の、外国人に他する不当な扱い」「通商の要求」など難題をふっかけて来るペリーに対し堂々と反論していきます。
言い負かされたペリーは沈黙を続け、「通商」を諦めました。
こうした交渉の結果、3月31日に「日米和親条約」が結ばれます。
その中で「下田」と「函館」の開港が約束されましたが、この時はあくまでも物資の供給を行うためだけであって、通商は行わない取り決めでした。
つまり、日本は「戦闘回避」「通商拒否」の目的を達成したのです。
軍事力の差をはねつけ日本の要求を通した見事な外交手腕でした。
一月の交渉を経て、ペリーはすっかり林復斎に対して好意的になっていました。
「もしロシアやイギリスが攻めてきたら、アメリカは軍艦を率いて日本を助けに来る」と約束したそうです。
さらにペリーは後日、「日本将来、強力なライバルになるだろう」と評しています。
ペリーは日本を開国させた4年後に心筋梗塞で亡くなりました。
その後、イギリス、ロシア、オランダとも同様の和親条約を結び、日本はいよいよ激動の時代に突入して行きます。
余談になりますが、日本がアメリカとではなく、イギリスと最初に条約を結んでいたらどうなったでしょうか?日米和親条約の2年後、同じアジアの国「タイ」は、イギリスの手により開国させられました。
この時に結ばれた「ボウリング条約」は非常に不平等なもので、植民地化に繋がりかねないものでした。
イギリスは日本ともこの「ボウリング条約」と同等の条約を結ぶ計画をしていたそうです。
最初に締結した日米和親条約が前例、基準となったため、各国は日本に対してそこまでひどい条約を結ぶことができなくなりました。
日本はしっかりと世界情勢を見据えた上で、どの国と交渉すべきなのかを考え、アメリカを開国の相手に選んだのでした。