『獣の奏者』外伝「秘め事」:子を残さない命を肯定すること
宇宮7号です。普段は絵を描いたり世界史の解説動画を作ったりしています。上橋菜穂子ファンです。
今回は『獣の奏者外伝 刹那』の話です。
『獣の奏者』は4冊完結ですので、そこまでは皆さん読まれるのですが、その後『外伝 刹那』までは手を出さずにやめられる方が多いようで、なんと勿体無いことかと衝撃を受けたので、ここにて魅力を力説しようと思います。
特に今回は「秘め事」という中編を語ります。
なぜかというと、この話は特に、『獣の奏者』のテーマとは少し異なる方向の物語であり、本編では語れない価値観を描く話だからです。
この話では、カザルムの教導師長エサルの若い頃が描かれます。
彼女から見た王獣は、エリンから見た王獣とはまた違った美しさがあります。
「秘め事」で描かれるのは、子を残さない命の肯定です。このテーマはその後『鹿の王』で論じられ、おそらく『香君』にも繋がっていくのですが、その嚆矢が、この話のエサルなのだと思っています。
“野に生きるままの生命”を肯定するエリンの視点では描けなかった、“保護場の王獣の美しさ”を、エサルを通して描いているわけです。
とはいえ、勝手な考察ですので、いちファンの妄言と思ってお楽しみください。
注
『外伝 刹那』の中には「刹那」という中編も収録されているため、鉤括弧の違いで区別する。
収録された中編を示す場合は、“表題作「刹那」”などと表記する。
エリンとエサルとの対比
「秘め事」という物語を位置付けるにあたって、この物語の主人公であるエサルと、『獣の奏者』本編の主人公エリンとの対比構造を提示する必要があろう。
エサルは、研究の情熱や王獣への思い入れなど、エリンとよく似たところのある人物だが、その生き方や王獣への関心は彼女と少し異なる。
出自について
エリン:天涯孤独(故郷を持たない)
エサル:貴族の長女(総領娘)
王獣への関心について
エリン:野生の王獣に惹かれる
エサル:保護場の王獣に惹かれる
王獣への態度について
エリン:野生のように育てて繁殖に成功する
エサル:規範に基づいて世話し最期を看取る
自身の生き方について
エリン:結婚し、子を産む
エサル:未婚。子を産まない(避妊薬を飲もうとする)
これらを踏まえ、まとめると
エリン:野生
エサル:飼育(反•野生)
という構図になろう。
王獣への認識・態度が、そのまま彼女たちの人生の選択と対応して描かれているのが、よくわかる。
この対比を詳しく見ていく。
野生の王獣とエリン
まずはエリンと王獣とを対応させ、彼女を通して描かれる美しさを確認したい。
エリンは、“山りんご”という名に相応しい、野に生きる人間である。
彼女の特徴は、天涯孤独であることだ。
幼少期からの生い立ちを辿っても、総じて「コミュニティから疎外」されていたといえるだろう。
闘蛇衆の村では、母親の出自故に社会の周縁部にとどめ置かれ、母の処刑後は故郷も失った。その後出会ったジョウンは閑居しており社会との繋がりを持たない。カザルム入学後は、そのジョウンも亡くなった。
彼女には帰る場所がない。それは、どのコミュニティにも所属していないということを意味する。
非常に過酷な運命である。
が、こうも言えるだろう。
エリンは親族社会のしがらみに縛られていない。
“世間の目”やら“親族の反対”から、最も遠い場所にいる。
だからエリンは、愛する男との結婚を、自分の意思で決めたのだ。
(相手も同じように親族の繋がりを持たぬ人物だったことも、大きな幸運だろう)
親族の結婚を思い出してみれば、彼女の結婚がいかに異色かわかるだろう。
母ソヨンは許嫁でなく好いた男と添うために一族を捨てるまでした。闘蛇衆の村に生まれた叔母は、別の闘蛇村に嫁に行った。
たとえ同じ階級であっても、単純な恋やら愛やらで結ばれることの少ない社会である。
そんな社会で、好いた男(ソヨン風に言うなら“身体が呼ぶ男”)とあっさりと子をもうけたエリンは、非常に野生的なのだ。
『獣の奏者』本編は、美しい物語だ。
“野生”的に美しい物語である。
エリンは野生の王獣に心惹かれ、特滋水や音無し笛で王獣を縛る王獣規範に疑問を持つ。
保護場の王獣たちは、体毛もくすみ、空を飛ぶことも子を作ることもしない。
一方、エリンがかつてカショ山で見た野生の王獣は、光り輝く体毛を持ち、空を飛び、子を育てて生きていた。子は親に甘えた声で鳴きかけ、親はそれに応える。状況に応じて様々な鳴き声を使い分ける、美しい生き物として描かれる。
エリンが音無し笛も特滋水も使わずに育てた王獣リランもまた、野生のような毛並みを持つようになる。作中ではそんな野生的な美しさに何度も言及されている。
極め付けは交合である。
本編では、生命が番い、子を残すという営みに重きを置いており、だからこそ、生き物の自然なあり方を歪めてしまう王獣規範を、エリンは否定するのである。
『獣の奏者』が多くの人に受け入れられたのは、そこで描かれる美しさが、誰もがその尊さを本能的に知っている、生命の美しさだからなのではなかろうか。
野にあるものは野にあるように、飛翔し、交合し、子を残し、そして人に利用されることなく気高く生きる。それがエリンの惹かれた美しさなのだ。
彼女の生き方もまた、野生のそれである。
彼女は世間の作る鎖でなく、目の前の誰かとの関わりをいちばんに考え、心の赴く道をゆく。
エリンは、政治的に難しい立場におかれ、自分の子もまた辛い目に合わせてしまうことを理解したうえで、それでも子を産んだ。
それをエサルはこう表現している。
ここでは、直接的にエリンと王獣とが結びつけられており、王獣に対する態度が、エリン自身の人生にも投影されている。彼女は去勢されて生きることを良しとしない。飼われた王獣のように、生を歪められた人生を生きるのでなく、野にあるように、身体が呼ぶ相手と結ばれ、子を産むことを決めたのだ。王獣の繁殖に成功した彼女らしい、人生の選び方である。
まとめると、エリンの物語の“野生”性は、
・野生の王獣に惹かれる
・王獣を自然に近い方法で育てる
・王獣の繁殖に成功する
・結婚に際して柵を持たず、愛する男と添う
・自身も去勢された生を拒み、子を産む
以上のような点に表れている。
保護場の王獣とエサル①
エリンの物語は、命を繋ぐ自然の美しさを肯定する物語だけれど、そればかりが美しさではない。
エサルの目を通して、他の価値観も描かれている。
次はエサルと王獣との対応を確認し、エサルから見た美しさを論じたい。
エサルは貴族出身の女性である。
これはエリンと決定的に違うところだ。
貴族社会における婚姻は、はなから当人の自由にできるものではない。
皆、物心ついた頃には許嫁がおり、年頃になれば結婚して後継者を産む。婚姻は家の存続の手段である。
さらに言えば、エサルは総領娘である。
姉妹のみの長女であり、男の兄弟がいない。つまり、自身が婿を取って家を継ぐことが義務付けられているのだ。
エサルは14歳時点で、その地位を妹に譲り、タムユアン学舎に編入するが、その後の将来を考える時も、貴族社会の常識から逃れることができない。
例えば将来について考える時がそうである。
タムユアン卒舎後、結婚しないのならば、未婚のまま実家で妹夫婦と共に暮らすことになる。それはそれで生き苦しかろうと、彼女は憂う。
また、愛した男との関係を思い悩む時も、貴族社会の目が彼女を苛む。もしも子ができてしまったら、両家の信用が地に落ち、妹夫婦や相手の家の者たちも後ろ指をさされて生きていかねばならない。全てを捨てて生きるなどとてもできない。そうして苦悩する。
彼女はよく、壁の外に出られない動物に自分を例えている。
貴族の娘と帰る家のない孤児では、一般的には前者のほうが幸福と見做されやすかろうが、しかし、エサルの苦悩を思えば「幸せだね」とは決して言えないだろう。
彼女の住む世界は、“世間の目”やら“体面”やらが、どこにいてもついて回る、窮屈な世界なのだ。
「秘め事」では、学生時代のエサルが王獣に出会い、惹かれ、カザルムへ進路を決めるまでが描かれる。
ただし、彼女が惹かれたのは野生の王獣ではない。飼育された王獣の方であった。
彼女は初めて王獣を見た時、連れてこられたばかりの王獣の雛と、保護場で長く生活した成獣とを、両方目にしている。その上で、野生の強さを失っていない雛ではなく、無機物のように鎮座する成獣のほうに惹かれたのである。
それは、彼女が貴族世界に感じていた窮屈さと、無関係ではないだろう。
エサルは、病んだ王獣の痛みを和らげ、王獣たちを看取りながら、人生の大半を生きてきた。
彼ら王獣は痛みを人間に訴えては来ない。だからエサルは、王獣をよく観察し、変化を読み取ろうとする。
これは、エリンとよく似た姿勢であると同時に、大きな違いでもある。
エリンにとって、王獣リランやその子どもたちは、細やかに意思疎通をする生き物である。
しかし大半の王獣たちは、話さないどころか、決して人間に慣れず、応えず、ただそこに黙して在る生き物だ。
“王獣は語らない。ゆえにその様子を観察し、あらゆることを読み取らねばならない。”
これが、本編で語られることのなかった多くの王獣たちの姿であり、彼らに長く向き合ってきたエサルの態度である。
これだけでも、外伝を読むべき理由としては十分なくらいだろう。
くすんだ色でとろとろと眠る、飼育された王獣たちにも美しさを感じる人がいるのだと、本編を読んだだけでは、誰が理解できただろうか。
また、エリンの忌避した音無し笛と特滋水を使いながらも、王獣と真摯に向き合おうとする多くの獣ノ医術師たちがいることを、本編だけで読み取れただろうか。
「秘め事」は、本編で否定せざるを得なかった価値観を、掬い上げる話なのだ。
保護場の王獣とエサル②
もう一点、保護場の王獣とエサルとの共通点を見ておこう。
それはすなわち、子を残さないこと、である。
エサルは結婚を拒み、タムユアンに編入した。
誰かの妻となり、母となることを拒んだのだ。
さらにエサルは、結婚が叶わない男性を愛した。
彼女はその男との関係を続けるため、思い悩んだ結果、今後一生健康な子を産めなくなる避妊薬“ウロク”を飲もうとまで考える。
結局薬を飲むことはなかったが、最終的にエサルは彼と別れ、おそらく未婚のまま生涯を終える。
エサルが惹かれたのは、学友のユアンという青年である。
彼は医者の息子であり、自身も医学科に通っていた。貴族階級の男性らしく、家柄の良い許嫁もいて、卒業後は医者となることが決まっている。
エサルは在学中に彼と関係を結ぶ。その関係が期限付きのものであると、どちらも理解しており、エサルは特に、間違って子供ができてしまうことを恐れる。
エサルがユアンの子を孕むということは、単に個と個の関わりで済む問題ではない。
「オキマ家の長子がコルマ家の長女を孕ませて許嫁との婚約を破棄する」という、三つの家を揺るがす話なのだ。
・エサルの実家であるコルマ家の評価は地に落ち、父も妹も、妹の子さえも辛い思いをすること
・ユアンの許嫁は高級官僚の娘なので、ユアンの実家もエサルの実家も、報復されること
・そんな理由で婚約を破棄されたユアンの許嫁は、二度とまともな縁談が来ることはないこと
これらを思い、エサルは苦悩する。
一方ユアンの方は、そうなるものならなってしまえという破滅的な思考があるのか、「(子供ができてしまったら)裏街でもぐりの医術師の夫婦にでもなれば良い」などと発言している。
実際のところ、多くの人間に迷惑をかけることを厭わないのであれば、二人が添うことも無理な話ではない。
一族を抜けて愛する男と生きることを決めたソヨン(エリンの母)や、仕事を放り出してイアルの元に留まったエリンのような、刹那的な生き方ができる人物はいるのだ。
エサルは、それができない人間である。貴族社会の窮屈さを厭いながらも、その貴族社会の思考に誰よりも囚われ、選べる選択肢を自分で狭めてしまっているのだ。
人間社会に組み込まれてしまったが故に、惹かれた男との将来を考えることができないその姿は、保護場で飼育されてしまったが故に、生き物として自然にできていた交合ができなくなる王獣と共通する。
しかし、それは悪いことであろうか。
決してそうではないだろう。
エサルはあらゆる意味で、結婚して子を産むという生命の営みから外れた存在として描かれている。
そして「秘め事」ではそんなエサルのあり方もまた、美しく意味のあるものとして描いている。
エリンの物語が“野生”的な美しさなら、エサルの物語に描かれるのは、“社会”的な美しさだ。窮屈で狭く、心の赴くままにできることは少ない。その中で苦しみながら、それでも社会の一部として生きるものたちの美しさを肯定している。
作者は本編を描く時、本編の流れに沿わない余分な人物描写は省くらしいのだが、確かに本編でエサルを掘り下げるのは難しかろう。
エサルの生き方は、エリンと対になるが故に、本編に盛り込めば軸がぶれてしまうからだ。
「秘め事」は、本編と対になる価値観を補填するような物語だ。外伝でなければ描けないのだろう。
ちなみに『外伝 刹那』の恐ろしい所は、表題作「刹那」の直後に「秘め事」が収録されている所だと思う。
表題作「刹那」は、エリンがイアルと関係を結んでから出産するまでの話で、まさに人が人に惹かれ、子を産むという物語なのである。
その直後に「秘め事」で、子を産むことなく保護場の王獣と向き合って長い人生を過ごしたエサルの物語をぶつけてくるのは、ちょっと読者の情緒を掻き乱しすぎなんじゃないだろうか。
作者には別に、これらを並べることで問題提起しよう、などという意図はないだろう。
しかし読者である我々は、二つの物語を連続で読んで、無意識なままではいられない。少なくとも、多様な生き方への肯定を、二つの人物の物語から感じ取ることができるように思う。
まとめると、エサルは“野生”的なエリンの対になる存在であり、それは
・保護場の王獣に惹かれる
・音無し笛と特滋水で長く王獣を飼育する
・貴族社会の常識のなかで苦しむ
・好いた男と添うことができない
・結婚せず、子を作らない
以上のような点に表れている。
この“子を作らない命”への肯定というテーマを、次項で更にいろいろな視点から探していく。
子を残さない生命の肯定
さて、ここまで見てきた通り、「秘め事」は、『獣の奏者』本編と対照的な物語だ。
本編でエリンが選んだ道は、確かに美しい。動物として生来備わっている“当たり前”の生の肯定である。
けれど、だからと言って、エリンが選ばなかった“子を残さない生命”や、“飼育される生命”が無価値であるということにはならない。
当然ながら、エリンが選ばなかった姿もまた、生物として肯定され得る。「秘め事」は、それを教えてくれている。
子を残さず集団の為に身を捧げる個体については、以後も定期的に上橋作品で取り上げられていく。そこでここからは、そうした個体の価値について、「秘め事」だけでなく『鹿の王』や『香君』の例も取り上げながら見ていきたい。
「秘め事」:姉妹のために犠牲になるミチャ
「秘め事」では、エサルが総領娘の座を妹に譲って結婚せずに生きようとしていることを、ホクリ師(獣ノ医術師/エサルの師)が、野生動物に例えて話すシーンがある。
ミチャ(ネズミに似た獣)の群れには見張り役がおり、天敵が来れば警戒音を出して群れに警告する。それ故に、見張り役は真っ先に天敵に捕食されてしまうのだという。
このミチャは、名言はされていないが、ハダカデバネズミをモデルとしているようで、群れの成熟した個体は全て雌で構成されている。(※ハダカデバネズミは蜂や蟻と同じ、女王のもとに群れを作る真社会性の動物である)つまり見張りのミチャは、自らの血を残すのでなく、姉妹や親類を守り群れの存続を守ることで、群れの存続に寄与しているわけだ。
個体が自らの子を残すという観点から見れば、一見非合理的だが、集団全体の維持のためには、見張り役の存在はこれ以上なく合理的な選択である。このホクリ師の説明はすなわち、タムユアンで学んだ知識で領地経営の手助けをし、妹の子を守ろうと考えた、エサルへの肯定なのである。
『鹿の王』:サエとミラルの会話
『鹿の王』は病を題材にした物語である。よって生命に対する様々な価値観が登場する。
ここでも、子を残さない命についての言及がある。
未読の方もおられるだろうので、必要なところだけ話そう。
物語に、サエとミラルという二人の女性が登場する。
サエは、一度結婚したが、子ができずに夫と離縁した女性である。
ミラルは、身分差故に結婚が叶わないと知りながら、恋人と関係を続けている女性である。
彼らは、男たちも交えて生命の連鎖について会話をしており、雌雄のある生命が子を産み子孫を残して死んでいく話題になると、サエが目を曇らせる。
親から伝えられたものは途切れてしまうだろうというサエに対し、「子が親の特徴を半分ずつ受け継ぐという単純なものでもない。双子であっても特徴は異なる。それぞれ唯一無二である」とミラルは言う。
自身が子を残せない二人だからこそ、その会話に込められた思いは強く伝わってくる。
その場にいる主人公のヴァンもまた、妻と子を亡くした男である。『鹿の王』は、様々な事情を抱えた彼らが、様々な命に向き合う物語であり、子を作らない命もまた、その一つとして肯定されているのだ。
『香君』:オアレ稲と香君
『香君』は、『獣の奏者』と似た特徴を持つ物語だ。『獣の奏者』ほど強くその是非を問われてはいないが、“子を残さない命”が複数登場する。
こちらも未読の方がおられるだろうので、関係のある点だけ記載する。
舞台であるウマール帝国の支配の要は二つある。一つはオアレ稲。もう一つは香君である。
オアレ稲は、非常に豊かな実りをもたらす稲である。帝国の定めた「香使諸規定」に基づいて栽培することが義務付けられているが、その方法で栽培すると種籾を残さない。
種籾を残す方法は、皇帝と一握りの者しか知らない為、種籾が欲しければ帝国に従わなければならないのである。
(王獣規範に基づいて飼育すると交合しなくなるという王獣に酷似している。)
また、帝国には皇帝の他に、香君と呼ばれる立場の女性がいる。
香君は、この国とオアレ稲の権威の象徴である。
建国に関わった伝説の女性を初代とし、香君が死ぬと、帝国内に生まれ変わりが現れるとされる。
よって、香君となった女性は、結婚することも子を残すこともしない。もし孕んでしまった場合は、子を産む前に排除されるのだという。
オアレ稲と香君は、どちらも“子を残さない”という点で共通している。
この物語では『獣の奏者』と同じように、規定が破られることで厄災が起こってしまい、主人公たちはそれに対処しつつ過去を探ろうとする。
詳しく話すと結末のネタバレになってしまうが、『香君』では、『獣の奏者』と違い、このオアレ稲や香君の制度は崩壊することなく完結する。
『香君』のテーマは別にありそうなので、『獣の奏者』と単純に比較するわけにもいかないが、しかしあえて重ねて見るとすれば、『獣の奏者』で選ばなかった道を選んだ物語のようにも見える。
主人公が、誰かと添うこともなく、ひとり生きる道を選ぶのもまた、エリンと対照的である。
『獣の奏者』とよく似ているが故に、違いが目を引く作品であろう。
「秘め事」ウロクを飲めなかったエサル
このように上橋作品では、子を残さない命が取り上げられ、様々な命の一つとして、他の生き方と同様に肯定されていく。
“他の生き方と同様に”というのが大事である。ひとつの生き方以外は否定するのではなく、エリンのような生き方もエサルのような生き方も、その他のあらゆる登場人物の生き方も、同様に肯定されているのを、押さえておきたい。
エサルだって、子を産まないことを選択したが、子を産むことを否定したわけではない。
最後に、この点を考察して、この話を終えたい。
先に述べたように、エサルは万が一にも子供ができないように、避妊薬のウロクを飲もうと考える。
ウロクは、高級娼館の遊姫たちが飲む、避妊の薬だが、効き目はとても強く、一度飲めば今後一生、健康な子を産めない体になってしまう。
それを承知の上で、エサルはユアンとの子ができないよう、ウロクを煎じて飲もうとする。しかし偶然ユアンに見つかり、飲むことはなかった。
このエピソードが何を意味しているのか、考えたことがある。
エサルはその後未婚を通すわけだから、物語の展開上、飲んでしまっていても大きな変化はなかったはずだ。
しかし、これまでのように、王獣への態度と自身の態度が対応しているなら、このエピソードは、ひとつ意味を持つのではないか。
すなわち、エサルが「子を産むという生命のあり方を否定しなかった」という意味合いである。
保護場の王獣に惹かれたエサルであるが、野生の王獣に対しての関心も当然ながら持っており、何度か野生の王獣を見に行こうと試みている。その時は霧の民に出会い、ついぞ見ることは叶わなかったが(『王獣編』第六章1)、その後エリンと出会い、王獣の飛翔や出産を、教導師長として身近に経験することになるのだ。
エサルは子を産む人生を選ばなかったが、子を産む人生を否定したわけではなかった。
エサルが作中でウロクを飲めなかったことは、数十年後にエリンと出会い、エリンと関わり王獣の交合と出産を目にすることの、暗示なのではなかろうか。
「秘め事」は、エサルの人生を通して本編を補填するとともに、本編へと繋がる物語なのかもしれない。
おわりに
以上、『獣の奏者』は外伝まで読んでくれと言う叫びを長々と語ってきました。
書き終わって気づいたのですが、どう見ても既読者向けの記事になってしまいました。
読んでない人に向けて書くなら、もっとネタバレしない方向で書かなきゃいけなかったのですが、ネタバレせず語るのはおそらく無理だったことでしょう。
作者は物語の種を思いついたら一気呵成に書き上げるタイプらしいので、そこまで意図的にいろんな意味を込めてはいないのかもしれませんが……。だとしても、込めようと思わなくてもこう綺麗に対応関係になるのがプロってことなのじゃないかと、勝手に思っています。
ともかく、いちファンの妄言として受け取っていただければと思います。
上橋作品については、他の記事でも色々と語っているので、興味あればぜひご覧ください。
また色々と書くと思いますので、その際はよろしくお願いします。
それでは、読んでいただきありがとうございました。
宇宮7号
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