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「女の決闘」太宰治 〜心のなかにある事実/真実とは?〜|読書感想文 #6

最近、マインドフルネスを学んでいます。
心に浮かぶさまざまなことを、判断せず、ただ気づいていく。
いかに私は日々自分の言動に、思いに、「Judge」を下しているかが少しずつわかってくるようになりました。

判断すると、苦しい。
常に自分のなかで「あれはいい」「これはだめ」が繰り返され、あたまでっかちになって、動けなくなる。
休日に、何をしたらいいのかわからなくなって、部屋の床でうつ伏せになって、意味もなくスマホを見たり、ごろごろしたりして、気づけば夕方になる。

最近は、自分のなかに湧いてくる、いろんな思いも、ひとつひとつ大切にしてあげたい、気づいてあげたい、と思うようになりました。

そんななかで読んだ、太宰治の「女の決闘」。
森鴎外が翻訳した作品を読者といっしょに読みながら、「原作に足りないところ」を太宰が「少し補筆してゆき、いささか興味あるロマンスに組立ててみたいと思っています」という作品です。

読んだらわかりますが、「少し」どころの補筆じゃないです。
いつのまにか太宰ワールドが目の前に広がり、なかに引きずり込まれていきます。危ない。

この作品、とてもおもしろくて、書きたいことはたくさんあるのですが、特に印象的だったところを抜き出します。

人は、念々と動く心の像すべてを真実と見做してはいけません。
(中略)
卑しい願望が、ちらと胸に浮かぶことは、誰にだってあります。時々刻々、美醜さまざまの想念が、胸に浮んでは消え、浮んでは消えて、そうして人は生きています。その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間には在るという事を忘れているのは、間違いであります。念々と動く心の像は、すべて「事実」として存在はしても、けれども、それを「真実」として指摘するのは、間違いなのであります。真実は、常に一つではありませんか。他は、信じなくていいのです。忘れていていいのです。多くの浮遊の事実の中から、たった一つの真実を拾い出して、あの芸術家は、権威を以て答えたのです。

(太宰治「女の決闘」『ろまん燈籠』角川文庫 p.170)※太字は記事作成者


人の心には、いろいろな考え、思いが浮んでは消え、浮んでは消えていく。
ネガティブな感情が生まれても、それ自体悪いことではない。
ただ、そういう感情が浮んだだけ。
それは、ただの事実である。

自分の心がすべて、ネガティブな思いでだけできているわけではない。
うれしいときもあるし、希望にあふれるときも、たまにはある。

まさにマインドフルネスで学んだことです。

そのなかから、何かを「真実」として拾い出さないといけないときがあるのなら、自分が何を選ぶのか。
わたしは、自分で「選択」して生きていけばいいのだと感じました。

小説は、心の学びになりますね。DAZAI先生。

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