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③何も知らず、無邪気に、誰かの宝物を盗んだ。

家の近くの側溝に薄汚れたリカちゃんを見つけたのは、たぶん、私が小学生になる少し前だったと思う。

拾い上げると私は、その薄汚れたリカちゃんを迷わず連れて帰った。左頬にはどんなに拭いても取れない汚れがあって、髪の毛もバサバサで、とかしてもとかしても変な癖が直らなかったけど、その日から「私の(いや、私だけの)」リカちゃんになった。

家族は誰も、私が、見覚えのないリカちゃんを連れていることに気付いてはいなかったと思う。

姉たちのお下がりの、いろんなオモチャや絵本と組み合わせて、私は一人、飽きずに「ごっこ遊び」に興じた。

それはまだ、学校という枠の中に投入される前の、残り少ない、豊かな、そして孤独な時間だった。

ある日、市から配布されたらしい、大きな紙袋が居間の隅に放り出されていて、早熟な私は、そこに自分の名前が書かれていることを見つけた。中には巾着型の袋が入っていて、その中に新一年生が使うお道具箱があった。

自分がもうすぐ小学校に行くのだ、ということは、幼稚園で何度も聞かされていたし、楽しみですね! 嬉しいですね! と繰り返す先生たちの様子から、私自身もまた、新しい生活へのわくわくした、くすぐったいような予感に包まれて、ふわふわした気分になっていた。

テレビなどで見た小学生は、ランドセルを背負って学校に通う。早合点した私は、届いたその巾着袋の紐に腕を通し、背中に背負ってみた。すると急に大人びた、誇らしい気持ちになった。

誰もいない家の中で、私はリカちゃんを相手に、その姿を何度も何度も見せびらかし、いいでしょう? ちえは学校に行くのよ、と自慢気に話しかけた。

もちろんそれはランドセルではなく、市から配布されたお道具箱で、春になると私は、やっばり姉のお下がりの手提げ袋に、教科書や筆箱を入れて入学した。

あれから何十年もの時が流れて、ふとしたきっかけで、私は突然、思い至る。

あのリカちゃんには、きっと持ち主がいたはずだ、と。

状況を思い起こして考えれば、その持ち主は捨てたのではなく、うっかり落としてしまったのではなかったか? 

その(当時の慣習によればたぶん)少女は、もしかしたら必死になって、涙ぐんだりしながら、辺りを探し歩いたのではなかったか? 

あるいはその不注意を、親に叱られたかも知れない。もうニ度と買ってもらえなかったかも知れない。

私は何も知らず、無邪気に、誰かの宝物を盗んだのではないか? 

今となっては、真実を知る術はない。まして、償う術は尚更ない。

時が満ちて誰もが卒業していくように、私は、あれほど大切にしていたリカちゃんをあっさりと忘れ、やがて放置した。

今うちには、私が娘に買い与えたリカちゃんが山のようにある。リカちゃんのパパ、ママ、双子や三つ子の弟妹たち、複数のリカちゃんハウス、そしてたくさんのドレスや小さなアクセサリー。

私は、買ってもらうことの喜びを、知らずに育った。

だからこそ義務感に迫られて、あるいは強迫観念に追い立てられて、子どもたちの誕生日やクリスマスが来るたびに、何週間も前から周到に準備し、恐る恐る差し出してきた。

喜んでいるか、顔色を伺いながら。
正解か間違いかのジャッジを気にしながら。

楽しいイベントだと思い込んできたけれど、それもまた悲しみに満ちた、手探りのファンタジーだった。

ある時期確かに、リカちゃんは娘の宝物だった。けれどもやっぱり、埃を被ったたくさんのオモチャや絵本と共に、リカちゃんもまた、あっさりと置き去りにして娘は巣立っていった。

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