「なぜあなたは文章を書くのか」という問いを考える
憧れていたnote、どこか遠いもののように感じていたnote
「初めての投稿」でなんだかかっこつけたい自分もいるが、いつも通りゆっくり言葉に出来ればと思い書いていきます。
なぜいまnoteをはじめたのか
文章が好きで、言葉が好きで、文字が昔から好きだった。
そもそも私にとって「文章を書く」という事象は自分の気持ちを整理するための方法であって、とてもエネルギーを使うこと。でも発散しきるとスッキリする一種のストレス解消法みたいなもの。Evernoteに書いては消して、また気が向いたら書いて…を当たり前のようにこの数年続けていた。
こういうと聞こえはいいが、自分の体験や感情を言葉にするのは容易ではない。何か言葉という形で形容したくとも、どんな言葉にも当てはまらないような感覚は何度も実感している。だからエネルギーを感じる。言葉にすることを放棄することももちろんある。
大好きな平野啓一郎さんの著書『マチネの終わりに』にこんな一節がある。(『マチネの終わりに』に関してはまた別の記事でたくさん触れさせてください)
「言葉にする以外に、自分を立て直す方法はないはずですが、自分に向かって自分について語ることの難しさを改めて感じています。」
これを読んだときに「あ、これだ」と私は思った。私も同じなのだ。
ただ自分を鼓舞するために -
ただ自分を理解するために ー
ただ自分を慰めるために ー
ただ自分を守るために ー
私は文章を書いている。結局自分のためなのだ。我儘だろうか?
今の私は誰かに向けて書いているのではなく、自分に向けて言葉を選び、文章を書き、理解の世界を拡げている。だから自分がまずは一時的な満足を実感出来る文章を書きたい。きっと長期的に満足出来ることはないのだから。
そんな自分のための文章をなぜオープンにするのか。
私はここにずっと悩んでいた。読まれる必要もないと思ってずっとひた隠しにしていた。文章を書いていることさえも周囲には話していなかった。
その答えは、文章を「読まれる」という経験が欲しいと感じたから。それも不特定多数の誰かに。自分の知り合い内であればTwitterやInstagramやFacebookの投稿文で十分だと思った。
結局文章は主観的なものだから、読む側の状況に左右される。同じ本を読んだっていつも感じることは違う。そういう経験が必要な気がした。
今までのように自分が好きで文章を書くという動機変わらないが、「読まれる」ことには意識を置いていきたい。
「自分」という生身の人間を理解した上で読まれるのは少々恥ずかしいから、私はこうやって誰も知らない「わたし」になりたくて、もう1人の「わたし」として書き始める。
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