松の内の行事 すべては出会いから
正月に写経をする。風呂に入りさっぱりとした気分で静かな部屋で筆をとる。それを松の内に義父の眠るお寺へ納めにいく。それが10年以上つづく夫とわたしの小さな正月行事。
それにしても出会いとはつくづく不思議なものだと思う。
いつも大勢の人とであい、多くの出来事ともであうけれど、その大半は記憶にさえ残らない。ところがちゃんと出会える出会いというものがある。
神仏との出会いはいつでもどこかぼんやりとしている。そのぼんやりとしたものを「あれはいったい何だったのだろう?」と思いはじめた時が出会いのはじまりなのかもしれない。
般若心境が耳に残ったのは友達の一言だった。「最近写経をはじめたの」と言った彼女の言葉が耳に残った。「何か悩みでもあるのかしら?それともおかしな宗教に関わっているのかしら?」と心配が一瞬頭をかすめた。
間もなく、品川の高野山別院の書道展で子どもが般若心境のお守りをいただいた。そのお守りの般若心境と写経はわたしの中ではまだ繋がらない。ところがお守りに書かれていた言葉が気になり読むようになり、それが写経の文字だと気づいたのは読むのが日課になったころ。
鈍い。
その後真言と出会う。ある寺のホームページを訪れた時経の音が気になった。その音をカタカナで拾い真似した。それが梵字で真言だとは。言葉が明るい光を放つように感じられて惚惹かれた。それもそのはず、それは光明真言だった笑。
歴史が、仏教が、まだ自分とはすれ違ってもいない。鈍い。
それから弘法大師さまの寺がいいと思っていたけれど、その空海様と真言と般若心境がある日繋がる。「な~んだ。そういうことか」とストンと腑に落ちた。ずっと前から出会っていたけれど出会えていなかったんだと可笑しかった。
神社もまたしかり。
今も家族には笑われるけれど。どうしたわけか無性に箱根神社に行きたくなった。年の瀬で宿もない。夫は呆れたけれど、言い出したらきかないわたしの性格は十分過ぎるほど知っている笑。
ところが出発前日、芦ノ湖畔の箱根ホテルに空きがでたとJTBさんから連絡があった。それが箱根参りのはじまりとなる。今では夫のほうが思い入れが強いほど笑。君はあの年箱根神社に呼ばれたんだななんて時折夫が呑気なことをいう。
そして父が8年前に亡くなり、その翌春神社の夢をみた。起きてもそれが夢とは思えないほどクリアに残った。実家がお守りしてきた小さな神社の夢だった。夢の中で「な~んだ、そうだったのか」なんていって納得している自分がいた。
子どもの頃からよく遊んだ場でもあり、色々な行事があった場でもあった。けれど故郷を離れて以来思い出したことは無かった。その神社に歴史があることも、その神社を父やご先祖が守ってきたことも知らなかった。知ったのは夢を見た後。
ただその夢を見て無性に寄付をしたくなった。そのこともすっかり忘れた頃、故郷からお礼の書が届き、数年後そこを訪ねてみるとわたしの名の木札が掛けてあった。夢で見た神社、思いつきの寄付で自分の名がそこに残され新たにご縁ができていた。
出会いとはつくづく不思議なものだと思う。神仏も人も出会える出会いがあると今では思っている。
写経の写真はみんなのフォトギャラリーのモータルコイルさんよりお借りしています。モータルコイルさんありがとうございます。
新年早々、こんな嬉しいお知らせを頂きました。お読みくださった皆様、ありがとうございました。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
※スタエフでもお話ししています。