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逆縁の菩薩とnote

あなたは今、幸せですか?

私はSNSで沢山の人と出会い、思いがけず素敵な時が過ごせています。

その一方で、いつの間にかすれ違い、出会ったことさえ忘れてしまう人もいます。そんな変化の速いSNSですが、それでも、ここにはリアルな暮らしでは決して知ることのできない何かがあると思うのです。




苦しみを引き剝がす

誰でも言葉に引っかかることがあるのではないでしょうか。ノイズにまみれたこの社会ですが、私も時に、腹の底から欲していた言葉と巡りあうことがあります。

先日、音声配信のStand.fmで、「悩みは考えているときには自身と同化していて、紙などに書き出すと脱同一化する」そんな言葉と出会いました。

ただ考えてみると、それは既に体験したことでした。私はそれをnoteで体験しているのです。


そして、先日出会った観世タバコさんが、「行間を読む2万Hz魂のきしむ音」という作品でこんなことを書かれていました。

それは、noteで何かをさらけ出すということについて書かれた記事です。

言い出すときりがないのだが…とされた上で観世さんは、

みんな、どこかで折り合いを付けながら書いているのだと思う。
そして、出せば出すほど自分の中で何かは変わるだろうが
「どこまで出すか」については
ひとりひとりに美学があるかもしれない。

と書かれ、そして読み手の意見として、

誰もが
「これは墓場まで持っていく」
「でも誰かに聞いてもらいたい」
のはざまで、揺れ動きながら生きてるものなのかもしれない。

だからこそ!
苦しみながら、恥を捨てて時にエイやっと書いたもの、

真摯に向き合って書かれた文章からは、
そこには書かれてなくても、傷跡や、葛藤したり模索した経験値が
書いてる文章の端々から伝わってくる
と思うコトさえある。

読んで得られる、魂のカタルシス。

と書かれています。

それは痛みや苦しみを引き剝がしたことのある人の言葉なのかもしれない、そう思えたのです。



宿命

私が逆縁の菩薩という言葉に出会ったのは、まだ30代の頃でした。結婚し出産すると、何もかもが自分ではコントロールできなくなった、そう思いはじめた頃のことです。

ただ残念ながら、その時、私はまだ逆縁の菩薩の意味を理解することは出来ていません。

その逆縁の菩薩とは、苦しい出来事や、嫌なことをする人との出会いは、全て何かを気づかせてくれる出会いであり、自分を変えてくれる恩人であるという意味の仏教の教えです。


不思議なことはあるもので、20代の頃、私は複数の知人に将来を占われたことがあります。お願いした訳でもなかったのに。そしてその時、誰もが口にしたことがありました。それは、55歳ですべてを失うという恐ろしいものでした。

そして、埃をかぶり、記憶から消えていたはずのその呪いのような言葉を、私は55歳を過ぎて、ふと思い出したのです。

それが本当に起こったからです。

予言は当たったのです。



再生

それから暫くして、私はこのSNSの場で元気を取り戻し、静かに暮らしはじめました。

ところが、徐々に不思議な感覚に見舞われるようになったのです。それは、時間が見えるという感覚です。

たとえば、気になった記事を探す時、つい先ほど読んだはずの記事が、もう見つからないのです。その都度、私は通り過ぎた時間が形に収められ遠くへ押し流されていく感覚を覚えました。

そんな頃からです。私が過去を振り返り始めたのは。


順調に事が進みはじめたというのに、過去が私の前に立ちはだかるのです。

その過去を手繰り寄せて行くと、そこには「みっともない自分」がいました。

平穏な日々を送る自分と、深手の傷を負った自分、その乖離が静かにはじまりました。その頃から、塞がりかけた傷口から、赤い血がどくどくと流れ出し、だんだんと私は引き裂かれて行きました。

パカリと開いた傷口、そこには何もかももぎ取られてしまった私の日々が居座っています。そして平穏な日々を生きる自分を、傷だらけの過去の自分が飲み込み始めたのです。

そんな時に書いたのが「広尾の蛇と映画とあの人と」でした。
苦しすぎて、書かずにいられなくなったのです。

それでも、それが私の再生の始まりでした。





融合

秘密を抱えた自分に耐え切れなくなった心の疼きは、「惨めな過去を隠した自分」が「それを知らない誰かを欺く」という感覚から始まりました。

それは、時に平和な春の日のようで、時に暗い色をしたさざ波のようで、時に大波となって向かって来ます。そして、その波の中から声が聴こえる、そんな気がしてならなかったのです。「お前の秘密を知っているぞ」と。

元気を取り戻しつつある自分に、過去の自分が追いついたのです。


だから、過去に起きた出来事を、私は一本の記事にしました。

あの日々に何があったのか、何が起こったのか、どうして私はあれほど無力だったのか、初めてその傷口と向き合ったのです。するとそこには、血を流しながら歩く、数年前の自分がいました。

そんな風に苦しみながら書き終え、自ら投稿ボタンを押せたとき、何かが自分の内側で変わっているのを感じました。そして確信したのです。もう一度、顔を上げて生きていけると。思いもよらない変化でした。

それは、過去の自分と、現在の自分とが融合した瞬間でした。


それから、時を経て、私は過去に書いたその記事を再び読みに行きました。

何度も削除しようと思った記事でした。ところが、その記事は私の前で穏やかでした。そこに無力だった私はもう居ません。ですから、それを残すことにしました。過去から私を引き離してくれた大切な記事です。

そうしてその記事に鍵をかけました。それが私の最初の有料記事となりました。




結びに

人は時に、恐ろしく惨めな思いをすることがあります。そして人は時に、人に裏切られ、人の恐ろしさを知ることがあります。

けれど、そこから脱することはできます。「悩みを抱えているときは悩みと自分が同一化しているけれど、紙などに書き出すと脱同一化する」は本当です。

日々更新されるSNSの世界では、深手を負った傷が「過去という物語の入れ物に入って見える」時があります。その過去の塊を、両の手のひらで掬い取るのです。そんなふうにして、私は私に張り付いた苦しみを剥がし落としました。

そう、私は、私に張り付いていた苦しみと脱同一化したのです。

その時、初めて私は逆縁の菩薩の意味を知りました。


過ぎた日々はもどりません。惨めな思いや苦しみを運んできた人たち、そうした人たちとの出会いは、出会うべくして出会わされた出来事であり、人々なのかもしれません。けれど、たとえそうした人たちが逆縁の菩薩様であったとしても、二度とそうした人たちに触れなくていいのです。そして、恐れなくていいのです。そう思えたなら、長く居座っていた惨めさは砕けてなくなっているはずです。

私の理解した逆縁の菩薩様は、私と物事を分離し、過去に引きずられることなく前を向いて進むことでした。

ですから、あなたが今、苦しくて仕方がないのであれば、それを公のこの場に記してみてください。それは勇気のいることです。もちろん、それは公にしなくてもいいのです。書くだけでいいのです。

ただ、それを公にするのであれば、それなりの配慮は必要です。それは誰のためでもなく、傷ついたあなたのためです。

それでも、逆縁の菩薩様は、傷ついたあなたにいっそう深く優しいのです。

#逆縁の菩薩





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