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深層意識の底の底。

昨日の自分にダメだしすることってありませんか?わたしは、昨日、井筒俊彦氏著の『意識と本質』について書いたのですが、今日になって、あゝ、何も書けていないと反省しているのです。

そこで、今日は、もう一度「意識」について書いてみたいと思います。

実は、今、「意識」にちょっとだけ関心があるのです。


わたしの思う西洋哲学は、確か、先人の考えの積み重ねであったはずです。

ところが、この本は一味違うのです。複数の東洋思想を一つの大きなトレーに並べ、その複数の思想から「意識」を読み取る手法なのです。

その複数の思想をそもそもわたしは知らないため、読んでもよく分かりません。ただ幸いにも、わたしの好きな「空海」の記述がありましたので、そこを手掛かりに考えてみたのです。

タイトルは「意識」と「本質」ですが、どうやら、この書のミソは「本質」です。

「本質」が無ければ「意識」は一つ、

分断されることはない、のです。

つまり、表層意識と、深層意識の違いが書かれているのです。


この「本質」をシンプルに表すと、それは物体に付与されるで、それがなければ、リンゴも、アイスも認識されることはありません。けれど名が付くと、それはリンゴ、アイスとして認識できます。

「本質」は、言葉である、ということのようです。

そして、その名の付いたものを、人は表層意識で認識します。


ところで、空海の「空」は知られていますが、それがどれほどの「空」なのかはなかなかピンときません。

何もない、つまり本質がなく、言葉もなく、ただの空であるのなら、それは深層意識のように思えますが、それほどシンプルでもありません。

空海のいう深層意識もまた、言葉で分節されてはいないのですが、カラッポであるというわけではありません。

空海は「空」の奥の奥には言葉があると考えます。

その言葉が、大日如来です。しかも、これはまったく分節されていないコトバです。

空海は、最も根源的なコトバは大日如来であり、それが最初の声であり、その声と共に意識が生まれ全存在世界が出現しはじめると考えます。


これは、『サピエンス全史』のコトバの考え方とは向きが逆です。いきなり別な書を持ち出して申し訳ないのですが、パリオリンピックが終わったばかりで、開会式でフランス革命のショーがありましたのでちょっと拝借してみます。

『サピエンス全史』には、コトバが時代や文化を変えてきた様が書かれています。たとえば、

「1789年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた」

というように。

これは、誰かの想念が言葉となり、その言葉である本質が、革命という思想を表層意識で生み出したという考え方です。もちろん、言葉の無い時代には、人類は神話を作れなかったとも書かれています。


ところが、空海は、向きが逆です。

コトバは神であり、コトバこそ、創造主たらしめる神秘の存在エネルギーであると考えます。

始めにあるのは神のコトバです。


本書のわたしの理解はこの程度です。


とはいえ、わたしは空海に出会ってコトバに惹かれた一人です。真言宗がコトバの力をどれほど知っているのかは真言密教で感じることが出来ます。

表層意識には、恐らく沢山の言葉が詰まっています。だから、わたしたちは悔しがったり承認欲求が生まれたり怒ったり嫉妬したり悲しんだりするのだと思うのです。

その一方で、深層意識がコトバで分節されていない場であるというなら、そこは恐らく平和慈悲の世界だと思うのです。


その深層意識に行き着いたなら、人は幸せで平和でいられるのでしょうが、空海はその逆です。

何もない深層心理には存在エネルギーがあって、そこには、恐らく多くの人に影響を与えるほどの大きな力が備わっている、

そのエネルギーはコトバで分節はされていなくて、どこまでも届くというイメージなのでしょうか。


ちょっと混乱したままですね。

それでも、とりあえず、哲学は考えるきっかけをくれるということを学びました笑。




※最後までお読みいただきありがとうございました。

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