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生きるための物語 震災の霊体験『魂でもいいからそばにいて』を読む

元気なときに会いたい人と、しんどいときに声を聞きたい人が違うように、本もタイミングを選ぶ。これは、身内が亡くなってはじめて読めるようになった本。

現代版遠野物語。著者が震災で家族を亡くした人たちから聞いた、不思議な話が収められている。亡くなった息子の仏間にあるプラレールが動いたとか、命日になると毎年、妻の遺品のスーツケースや時計が瓦礫のなかから出てくるとか。現代の価値観からすると、カッパや座敷わらと同じくらいありえない。

著者は、語り手たちから「やっと聞いてもらえてほっとしたわ」「家族でも信じてくれないんです」と何度も言われたという。死後の世界は、科学の対象にはならないから。霊とか魂とか、そんなものは非科学的でいかがわしい。そういう空気はだれしも共有することだろう。

でも、著者は言う。

近代科学とは、たかだか四百年の歴史にすぎないのである。生命の歴史四十億年の中の、たった四百年なのだ。その程度の歴史で、理解できなければ排除することのほうがおこがましいと言わざるを得ないだろう(p.115)

そして、重要なのは、不思議な存在をもたらす霊の存在を認めるか認めないかそんなことではない。その体験を人々が語ることに意味があるのだと。

人は物語を生きる動物である。[…]
最愛の人を喪ったとき、遺された人の悲しみを癒やすのは、その人にとって「納得できる物語」である。納得できる物語が創れたときに、遺された人ははじめて生きる力を得る。不思議な話はそのきっかけにすぎない。亡くなったあの人と再会することで、断ち切られた物語は、生者によってあらたな物語として紡ぎ直される。その物語は、他者に語ることで初めて完璧なものになるだろう。(p.114)


物語をつくらざるを得ない。それは不思議なおはなしを妄想するということではなくて、出来事に意味づけをしてしまうということ。私の場合もそうだった。たとえば、身内が2月末に倒れて、ほどなくしてコロナで面会謝絶になってしまったという事実。最後会えなくてコロナが憎いと言ってしまえばそれまでだけど、弱った姿を見せないようにしたんだな、とか勝手に意味づけをすればギリギリこちらの気持ちが保たれる。

コロナによる変化に対しても、いろんな物語が紡がれている途中なのでしょう。志村けんが可哀想な犠牲者だとか、彼の功績を矮小化する物語でもなく、武漢とか「夜の街」を悪者に仕立てる安易な物語でもなく、人類がウイルスを制圧した証にお祭りをしようなんてチープな物語でもなくて、もっとなにか、まともなものを。


うめざわ
*お葬式がすんでから、墓地が怖くなくなった。怖いどころか。


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