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「偏見と表現」

「偏見と表現」

 私が尊敬に値する人物から聴いた思いがけぬ言葉がある。

「偏見があるから文学が書けるんだ、偏見が無ければ文学など書かんでしょう」と。
 私はこれを聞いた時に、彼のこの見解はこのまま額面通りには受け取れなかった。
 彼がこの物言いをした時の何とも言えぬ複雑な眼光を観たからである。
 彼は博識で古典文学や他の諸分野にも精通していた。あらゆる人物とも交流があった。
 この彼の観点に立てば偏見が無ければ自己表現は成立せぬということになる。
 では、偏見が無い人物は文学や他の表現は出来ぬのか?という問いが生じる。
 
 視点を変えれば偏見が全くない人物がいたとして周囲は偏見に満ちた他者ばかりであるとすれば偏見のない人物、無私の人物は大いなる偏見で観られるという奇妙な関係となる。

 今日に於いて真の宗教人は皆無に等しい。各宗教の教義に呪縛されているから宗教を学んでいる。仮に宇宙の真理を体得し得たなら新しい教えの創始者になるであろう。此処にまたその普遍的自己意識に至った人物の他者、状況に応じた表現方法が必要となる。
 結論から言えば、悟りや普遍的自己意識に至っている者が何処に居るのか!という或る種の嘆きに似た想いが吐かせた言葉である、と私は感じた。
ゆえに彼は尊敬に値したのである。

現実のあらゆる思想や混濁した想念に満ち満ち、混沌とした生々しい現実にどっぷりと浸りその中で生きている者の言葉には肺腑を突く深い懊悩があるからである。
世には簡単に為し得ぬ理想や夢の如き物言いを吐く人物が分野を問わず多い。

陸沈という概念があるが、真に陸沈した人物は簡単に血肉化されぬ理想や実体の伴わぬようなきれいごとの言葉など吐かぬのである。
 

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