2000年の日記より。
21年前の日記より
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2000年の日記より。
この日記の引用掲載は先日の「表現の本質、、」と関連した内容を含んでいる。
如何なる環境、状況、才能の有無、強弱を問わず、我々は例外なく個々人に準じた苦悩、懊悩を秘めつつ日常を生きている。
私のこの日記では自分自身の主観的見解による基盤で書かれている。
特に今日の時代に於いては個人の自我の膨張による偏見に満ちた世界観が形成されやすい。
私にとって最も激しく論戦したのは科学万能主義的なものの考え方をする魂の存在達であった。
彼らにとって個々人の魂や心の在り様など単なる無知がゆえ、という頗る傲慢さが潜んでいた。
このような魂の所有者を私は物神思想と呼んだ。
特に一般に賢いとされる、単なる相対的意識が可能な魂の所有者は自分の自我に内なる神を見出す。
この「神的意識状態」は単なる偏見なくものを見るための一視点にすぎない。
だが、当人にはそのことに気がつかぬ。
誰でもそうだが、自分自身の体験、経験したものに執着する。
これも当然のことである。
さらには内なる体験で「悟り」というある意識状態の実体験をすると自分は世界の全てを知った、理解自覚したと感じる。
私とて例外ではない。
この意識状態を自らの思考を用いて徹底的に咀嚼、意識化せねばならぬ。
私自身が如何に孫悟空的状態であったかを痛感したのである。
個々人の悟りや自覚に準じて名状し難い苦悩、痛苦を味わう。
それは謂わば「溝さらい人」になる、ということである。
断じて高所からものを言うことではない。ここに説明し難い痛みが伴う。
己の無力さを嫌というほど味わうからである。
この自分が存在する宇宙にある塵、最も小さな塵以下であるという意識状態に。
さらには自分の生きている時代の中で何処まで自他ともに生かせるか、生きられるか。
そのための方法、手段として芸術は最も有効であると。
但し、この場合の芸術とは広義の意味での創造的行為である。
日常のありふれた何気ない環境や状況にも自覚せずとも高貴な魂の所有者はいくらでも存在する。
この現実のあらゆる些細な事、行為にも神性・仏性は息づいている。
その日常の聖性に意識を当てること、顕すこと。これ以外に方法はないと。
これはそれこそ個々人の自覚に準じて対応、為すしかないのである。
まだ説明不足と思うが、以上を前提にして私はこれを書いている。
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一月四日(火)
現代に於いて如何に創造精神が必要であるか、この課題に対して芸術家達は真摯に対峙すべきであるのに依然として非日常的な次元で怠惰な惰眠を貪っている。私はこの自覚を自己探求の途上で獲得した。それ以降はその自覚に基づいて日常の中で活動してきた。例外なく個々人のなかにある可能性に向かって刺激と魂の火を与えては鼓舞、指導した。個人によっては強制とも脅しとも感じたであろう。私としてはそれぞれに応じて対処してきた。だが、複数の場合に於いては個々の限界や感受性によって様々な誤解が生じた。数千人の人々と会話、対話、激論をした。その度に真の対話の前提すら形成されていないのを痛感した。
私は懲りなかった。人と交わる毎に敵対する存在が増えた。共感する者も居ないわけではない。しかし、永続しうるほどの不屈の意志の所有者は希有であった。無論、それを自明のこととしての活動である。その私の活動に限界は無い。人類の有史以前から綿々と続いている霊的活動であることを私自身が名状し難い神秘体験として骨の髄まで味わい意識化したのだ。個人の魂は真の孤独や漆黒の闇に耐えうるほどには強化されてはいない。ゆえに私はその過酷な試練に耐えうる為の準備を各自の能力に準じて対応してきた。その方法を「魂の遠近法」と命名した。あらゆる分野、意識段階を問わず、ーーー。正に嵐のような日々であった。私の脳裏には今でも個々との関係が鮮明に記憶されている。初対面に時至れば決別が分かっていても自分では出来うる限りの最善は尽くしたつもりだ。つもりだ、という言い方は又誤解を招く。如何ともし難い、これがいつしか私の口癖となった。
兄弟のような関係になってからも誤解や偏見の類の衝突や論戦は避けられぬ。常に苦い痛みを伴い、慣れるということはない。出会いにも別れにも自己を納得に足る理由が常に必要なのである。「親しき仲にも礼儀あり」とは日常に於ける衝突しない為の世間知であり、未成熟な人間関係にとって不可欠な形式である。
自己探求の躓きの大きな要因である他者との誤解と偏見の戦いはまず自己形成の血肉化に必須の条件であり、日々の苦悩ともなる。ここによく知られる個人の殉教的ともいえる自滅の形がある。魂の疲弊は個人の心身を苛み、蝕み、絶望と孤独の重圧に耐えきれず、自らに死を宣告するのだ。
分野を問わずこの地点を淡々と乗り越えた存在は少ない。かろうじて自己を支えた者は他者との関係を相対化する。ここに又やっかいな「情」という捕らえがたい空気のような毒針がたえず個人の魂を突き刺す。いわゆる「劇毒に四肢は捻れ、形相は変わり、俺は地上をのたうった・・・」といった地獄の季節と云うべき独白が生じる。成す術もない個人は自虐的人生を送る。自らを貶め、痛みには更なる痛みというわけだ。この意識状態に留まる限りに於いてはは正に「地獄の季節」であろう。対極に仙人のごとき生き方もある。どちらにしても孤独と絶望の空間にいるのは同じである。
小林秀雄が大抵は「情」で片づく、と言ったのはこの情の網に捕らえられ身動き出来なくなった哀れな魂のことである。この魂の難破者達の為に小林秀雄は自己を捨てた。同情ゆえに、苦痛を分かち合う為に・・・。この光景すら誰もが今だまともに正視出来ないどころか理解もしていない。この悲惨な状況が現実なのである。深い嘆きは「無私」を必要とする。深い同情は代弁者としての批評家を作る。単なる無私では表現という意欲は消失する。これが空転する情熱となって同じ言葉を延々とたたき出す所以である。この到達点は「慈悲」である。同胞に対する愛といっても差し支えあるまい。この哀しみは名状し難い。ここに又大きな「躓きの石」が出現する。
ニーチェが語った「高人への同情」である。語った当人ですら超えることの出来得なかった意識でもある。薮睨みのサルトルはその状態を「ニーチェは信念のバレーを踊っている」と揶揄した。サルトル自身もカニの横這い思考で思考の深化は不可能であった。不条理とはカニの横這い思想である。どんな言葉を使おうが実体は物神思想にすぎない。
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