個人の受難劇「虚無観」へと至る物語
タルコフスキーの映画「ストーカー」のような展開
「批評家への序章:梅崎幸吉を論ずるための心構え」を読んでいるとタルコフスキーの「ストーカー」を想起する。
「ストーカー」の最初のシーンで部屋にソクラテスの彫像が置かれている。
「無知の知」が最初に描かれて、最後におのれの無知を知る、という事である。
映画ファンの方々には私の物言いは頗る不快と思われるであろう。この記事は無視されたい。
タルコフスキーの映画の「ストーカー」は簡潔に虚無へ至る物語を描いている。彼の他の映画は映像は洗練されているが理屈が多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ストーカー_(1979年の映画)
ゴダールの「気狂いピエロ」はランボオが下地として描かれている。だが、表現としてはランボオの詩を読んだほうが面白い。
他の映画は理屈が先行して凡庸である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン=リュック・ゴダール
アレハンドロ・ホドロフスキーの「エル・トポ」も然り。
その後の「ホーリマウンテン」は彼の主観的空想にすぎない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アレハンドロ・ホドロフスキー
デニス・ホッパーの「イージーライダー」も然り。
https://ja.wikipedia.org/wiki/イージー・ライダー
近、現代の個人の受難劇「虚無観」へと至る物語である。