「気について」
「気について」(2009-08-04記)
先日、友人のライブに行った。
気というものは我々が生存する限り常に発している。
命の源(実体)と同義である。
ましてや表現行為になればさらに気の発し方は強くなる。
自明だが、一人の表現ではその当人の気が中心になって現れる。
気には強弱だけではなく質もある。
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「気について」(1)
我々は日常の生活において「気」という言葉・概念を頻繁に用いている。
無論、殆どの人々はこの「気」というものの実体を知らずとも習慣的に用いているのである。
さて私の知る限り、この「気」の専門家的存在達にしても「気」の実体の解釈は様々であるし、その気に対して働きかけるレベルも各人各様である。
ただ大半は動物的気と混同している人物が多い。いわゆる「気」というものは手にとって見せるものではない。よく言われる「雰囲気的気」か自分自身の気のレベルに準じた「気の流れ」を知覚、感じ取るのは至極当然でもある。
古来東洋医学に於いては「気」に関する文献も施術者も多い。
生来の資質により「気」に鋭敏な魂の所有者にとっては気の流れや動きを感じ取り正常な流れにする為に気の経絡のツボに鍼灸治療を施す職業に就くものも多い。有能な施術者は全身麻酔にも用いる。
私は東洋医学に関しては左程知識はない。ゆえに此処では素人的なことしか書けない。ただ、知識のみでも「気」の実体が分かるわけではないのだが。
私は自分自身の体験、経験より体得した視点から考察、書こうと思う。
私は幼少より他人の心の動きに鋭敏であった。これは私自身の生来の資質による。
動物達は自然の摂理に純粋に準じている。だが、人間と言われている存在達は身勝手で個々人が個々人の欲望に沿った得手勝手な行為をしている。この人間の行為は幼い私には頗る不純な歪んだ行為に写った。私にとって自己感情なるものは不快というも不快なるものであった。特に宗教家と称している存在には殆ど嫌悪すら覚えた。生命が生命を喰らって生きる存在。その同じ存在である人間が何を偉そうな事をほざくか、と。これも私の生来備えた魂の質から生じた感覚的反応であった。
最も気に入らぬ存在の筆頭が宗教家・坊主どもであった。
物事を考察するときには嫌でも自己を基盤として語ることになる。ただ、その語る自己を何処まで客観的に、他者の如き眼差しで観、考察の対象にするか、血肉化するかである。
よく用いられる言葉に元気、本気、邪気、無邪気、生気、狂気、精気等々がある。
我々が用いる「気」という言葉は既に個々人に結びついた「人間存在的要素」が基盤となっている。
我々の眼も「肉眼、心眼、神眼」があるように「気」にも「元気、心気、神気」がある。心気とは個々人の魂と密に関連、結びついた「気」のあり様である。
あらゆる環境、状況の中で我々の「気」は自己防衛、保存の為に絶えず気を使っている。此処に我々が本来考察すべき最も重要な問題が含まれている。
個人の「気・魂」が常に正気に保持、制御され、日々の平常心に至れば低いレベル、弱肉強食的戦いなど生じ得ないのだが、これは我々個々人の今後の課題であろう。
「気について」(2)
ちと内容が横道にそれます。
古来より口伝のとして伝わっていた霊気というもののことを少し書きます。
古来より導師が選んだ魂の所有者のみに伝授していた秘儀に属する能力。
今日巷では「レイキ」という言葉をよく聞く。
このレイキとは霊的気の事であるが、今日流行っているのは或る日本人が啓示を受けて誰でも伝授出来るように作成したものである。それが欧米で流行って逆輸入されて商売のようになっている。
このレイキというものは誰でも魂の精髄として備えているものである。
よく我々が手当という行為をする。この手当の高度のものと思えば良い。
我々は地球人であると共に宇宙人でもある。この宇宙的意識と連動する方法があらゆる方法、形式化され、それぞれが皆自分の学んだものが一番と思い宣伝している。
古今を問わず、分野を問わず、この霊気なるものは優れた、或いは高貴な魂まで至ると自ずと身に付くものである。ただこの能力を商売のようには用いない。
換言すれば普遍的自我、真我、霊我、高次の自我等、呼び名は何でもよい。
個人の気の流れと宇宙の気の流れが融合する。この体験は至高体験・神秘体験とも呼ばれる。その片鱗に触れただけでも「私は全てを知った、悟った」と言わしめるだけの強烈な魂的体験となる。その体験を日常的地平に意識的に血肉化すれば霊気は個人から周囲に発せられる。此処で容易に錯覚、混同されるのが自分には他者にはない特殊な能力が備わった、ということ孫悟空的意識である。
通常誰でも備わっているこの能力の開発は心身のバランスを壊した人物にとっては金銭に換え難いものと思う。またこの能力を開発できれば世の為人の為と称してこの方法の為に金銭を投資する。この現象は今日加速化し今後も益々増殖していくであろう。
自分自身の治癒能力を高める為には自分自身の魂の質を純化、浄化しなければならない。金銭で買えるような簡単な代物ではないのである。
他者の魂に触れるということは己をも犠牲とする覚悟と厳しい内的倫理を所有していなければならぬ。多くのヒーラ、セラピスト等々達にはこの自覚があまりにも希薄な人物が多い。
これは心・魂を考察、扱う心理カウンセラーにも当てはまる。
気を扱うとは個人の聖域に踏み込むという事を意味する。無論、お互いに合意と雖もである。
無論、自分の行った行為は全て自分自身に帰って来る。因果応報である。
これは自分自身の肉体が消滅して初めて分かることであろうが。
この私の物言いに対して多くの異論反論は嫌というほど知っている。
努々「気」を扱うあらゆる存在達は十二分に自覚してほしいと思う。
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「気の実体」(2020-10-30記)
本来「気」とは生命力の事です。(さらに言えば「思考そのもの」の実体ですが、此処では書きません。)
神秘学用語では「エーテル体」とも呼ばれています。
生物である以上は全てエーテル体を持っています。
エーテル体は深い眠りの中で宇宙的なエーテル界からエネルギーを貰い目覚めます。
当然ですがエーテル体が肉体から離れれば肉体は物質界、鉱物界へと帰ります。このような神秘学的用語は此処では極力控えたいと思います。
東洋的な意味での「気」は生命を生命たらしめている健全な流れを指します。
一般的に用いられる「手当」はその本来の健全な流れにより滞った生命の流れを元に戻すために用いられてきました。
掌から実際に気は流れています。
ただ、生命の健全さは当人の精神状態、意識状態に依拠します。
父母性の健全な想いは自分の子供には強く働きかけます。逆も然りです。
身体に働きかける「気」と魂に働きかける、作用する「気」は実体は同じですが微妙な違いがあります。
これは言葉では簡単には説明出来にくいものです。
或る人物と会っている時は元気になるが、違う人物の場合はやたらと疲れ、その内に気分まで悪くなる、という風に、です。
これは相手の魂の「質」の問題です。
魂の質などあるのか、と異論を唱えた人物は過去に多くいますが、単に個々人の魂の「純化」された諸段階があるという事です。
生来の素質や能力の違いはあるにせよ、当人が意識して磨かなければ「魂」は純化、高められることはありません。
若い時には「原油」のような生気を多く放っています。
歳を経るごとにその生気は徐々に失われていきます。
所謂、老いというものです。
気の流れが滞り、強くなると肉体にまで影響を与えて病を引き起こします。
よく言われる「病は気から」です。
これは決して精神論ではありません。
ただ、無理をすると心身共に疲労するのは当然の事です。
「気」にも諸段階がありますが、此処では書きません。
病気自体は悪とかというものはなく生命の気が乱れていることを教えているにすぎません。
此処で又、異論反論が多数飛んで来ますが、それに関しては詳細には書きません。
各自が自分自身で人生の中であらゆる経験、体験して実感体得するしかないからです。
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あらゆる環境、状況の中で我々の「気」は自己防衛、保存の為に絶えず気を使っている。此処に我々が本来考察すべき最も重要な問題が含まれている。
個人の「気・魂」が常に正気に保持、制御され、日々の平常心に至れば低いレベル、弱肉強食的戦いなど生じ得ないのだが、これは我々個々人の今後の課題であろう。
☆追記
つぶやきに簡単に書いたものであるが、ここにも記載しておきます。
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気の乱れとは思考の乱れである。気の実体は生命であり、思考・叡智でもある。
健全な思考を徹底的に錬磨し、血肉化体得せぬ限りは気の乱れが肉体の弱ったところに滞る。
世に多く居る自称気功師と称している人物等は単なる商売にすぎぬ。
無論、真摯で真面目な人物もいるかも知れぬ。彼らは無償でやるであろう。
私も一時期1000人以上の人物を施術したことがある。事故で怪我したり者も含め、医者に見放された人物も6人ほどいた。ところが「ただほど怖いものは無い」と考えたのか、治ったら二度と私の前に姿を見せなくなった。背後に得体の知れぬ団体でもあるとでも考えたに違いない。
一人の施術にかなりのエネルギーを使う。その人物の魂の純度によって回復力がちがう。とはいえ、一日三人が限度である。この件に関する詳細は省く。
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