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「血と泥と」



「血と泥と」



俺はコールタールのような大気の中をもがきながら進んでいる。
 変質したのは空気だけではない。想念や感情や何気ない日々の光景、そのあらゆるものが粘り、へばり憑く悪意でこの俺を潰そうとする。

 俺のひとつひとつの行為そのものに渾身の意志が要求される。
 安らぎの眠りすら与えられぬ。何もかもが意識的な行為、必死の決意が普通であると、誰が信じえよう・・・・・・。

 眩暈、吐き気、激痛が俺の全存在に猛威をふるい責めたてる。
 ああ、俺はこの状態に何処まで、いつまで耐えきれるのか?
 俺の肉体は餌を拒否する。不眠とひりつく過敏さは脳味噌を軋ませ、全身に得体の知れぬ焼けつく痛みや痺れる苦痛が走る。

 俺は辛うじて自らを支えている。集中を弛めれば狂気に陥るだろう。俺は自分の行為を常に逆様に考える。そして回転させる。これをひたすら続けている。
俺の不安は俺が俺でなくなることだ。

 ――狂気に憧れる連中は狂気の何たるかを知らぬ。俺の緊張が一瞬でも弱まれば粉々に砕け散ることは間違いない。自意識の強いこの俺には死より耐え難いことだ。俺は狂気を、眠りを欲しない。

 俺の肉体は地を這いずり歩く・・・・・・
 空間が軋み、唸りと血がしたたる・・・・・・

 死者達の様々な顔が浮かんでは去来する。俺は風景を見るように彼らの顔を見る。阿鼻叫喚にみちた顔、もの悲しい顔、絶望と孤独に苛まれる顔、顔顔顔
・・・・
静止した時の中で明滅する彼ら。

 血と泥とにまみれ、もの悲しい調べ、その姿、顔、眼差し。
 闇をさまよい漂う。そちこちに血みどろで駆け走る魂の放浪者達
その苦 悶の・・・・・

 名状し難い地獄の空間に俺は成す術もなく立ち尽くし・・・・・・。
 悟りと至福と悲劇と孤独と悲惨と祈りと血の涙と生存の運命とをこともなく、ただ、ただ凝視している。

 血と泥にまみれ、俺はこの身が果てるまで異形者として生きねばならぬ、と決意したのは暗夜の闇にさすらう彼らを観たからだ。




二〇〇〇年一月六日

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