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「悲劇について」


「悲劇について」

 かつて、ニーチェが『深淵を覗いた者が、深淵と化した』存在を、手厳しく批判した。
そしてこれは今日でも悲劇について語る時かかせぬ問題である。

 自明のことだが、前提としてである。それはまた、批評の極点でもある。
だが、単にありうるというにすぎぬ。なぜなら、今日真の悲劇精神を所有している者は悲劇について語らない。
ただ不屈の意志を持って実践する。恐らく、彼等の行動は、人の目に触れず、聞かれず、知られない。がゆえに行動する。
闇に向って放たれた光の矢のごとく――それはまさに、世界に対する限りない畏敬に満ちた愛の供儀である。

 深淵と化した者は方向性を持たぬ。ゆえに化け物なのである。
いわば虚無そのものとも言いうる。だが真の虚無ではない。所詮分離したある意識にすぎぬ。
そしてそれは彼等の自己愛の精妙な変容であり、そこに彼等が気付かぬゆえに、自己欺瞞があるゆえに、当然のごとく批判されるのである。
 方向性を持たぬ、足場を持たぬ、とは真っ赤な嘘である。その状況に耐えうる程強ければそれをも乗越えるからだ。
そしてそこにニーチェの言った信仰を持つ者の欺瞞と同じ欺瞞が存在する。
全てを相対的に見做すことで他を巻込み、混乱に落としいれる。
これは知的強者の常套手段である。それもはなはだ怠惰で軟弱な。

 虚無と化す、あるいは無常観を所有した者はひっそりと、実にひっそりと生き、かつ耐えている。
その者達は一切を我慢する。この者達にしても真の「悲劇」ではない。悲劇的ではあるが今日において悲劇とは言えぬ。
「成しうる事を為す」これが悲劇精神を具えた者の合言葉である。
「成しうる事を為す」今日においてもなお、この言葉のなんと蹂躙されていることか!それぞれが、それぞれの能力、素質に応じて、と。
ここにはうさん臭い借物の道徳的偽善の臭いがある。
――だが、ああ、恐らく正しい、歯ぎしりする程正しい、が故に、目盛が、いや支点そのものが狂う。
一人悦に入って知的ゲームを楽しむ毛虱達の中にあって、それをも肯定して、いやいや、他者全ての色の嵐の中にあって平然と横たわるおのれをも尻目に石に向って説くごとく生きるもの。これは最高度の悲劇と言える。

 いくらでも言い方を変えよう。今日において悲劇は存在しない。し得ない、と言った方が正しいか。
この文章を読む君が悲劇と言うものが存在すると思っているなら、君は他者の物語を通してそれを知ったのだ。
君がそれを自己の所有と思い込んでいるのは浅はかな自己愛にすぎぬ。虫歯の痛み程度で忘れる程のものだ。
私の足並みが乱れていると見えるのは君が真っすぐ歩いたことがないからだ。
理屈と屁理屈の区別すらつかぬ君がなお「自分は悲劇を所有している」もしくは「悲劇を知っている」というならば、すぐに悲劇そのものを生き抜きたまえ。
そのとき、足は乱れ呼吸の乱れる者の心情が理解できるだろう。
無論、言うまでもなく「心情」がである。これは君達にとってはなはだしくプライドが傷つくことだが、誰もが日常生活の中で感じる、感じていることなのだ。
君達が君達のそのちっぽけなプライドの何がしかを捨てることができれば、「悲劇」のなんたるかが少しでも見えてこよう。
だが、くどいようだが今日において「悲劇」なるものは存在しない。存在しないことが、又そう言い切る心情が「悲劇的」なことなのだ。
あくまで心情であることが見逃されると何も見えぬ。また、今日ほど、真の心情が理解されぬ時代もない。心情という概念はあっても心情ではない。
らしきもの、個々の感情はある。だが心情は希薄である
生半可の軋みは悲劇たりえない。せいぜいメロドラマの役に立つ程度である。

 くり返す、今日において悲劇は存在しない。存在しえないのだ。これは生身を所有する人間にとっては悲劇的なことである。
だがすでに全体が相対的悲劇性を帯びている。全ての者が同じ条件であれば悲劇たりえないのは自明である。
その意味で存在しないのだ。その地点を突き抜けた心情のみが真の悲劇を理解する。
すなわち今日において悲劇は存在しないのだ、と。――バタイユの哄笑はこの地点に始まり、また終わっている。
くどいようだがこれも断じて「悲劇」ではない。

 知が心情と化し、心情がまた、知となった時「悲劇性」を帯びる。これは心情的レベルの悲劇である。
なお真の悲劇人たらんとすれば、それを生き抜くこと。
そして、悲劇を語らぬこと、そしてここで力強く「成しうる事を為す」という合言葉を所有すること。
これが真の悲劇精神の所有者なのである。

一九八六年三月一日


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