本物の自己肯定感とは
1人でいるのがとても好きな私だけど、仕事は絶対に接客業がいいと思うくらい人と接することも大好きで、仕事をしていない今、無性に人が恋しくなってしまうことがある。
でも体調が不安定な時期で、体調が崩れてドタキャンしてしまったことが何件もあったので、人に迷惑をかけたくないと思い、今はあえて予定を立てないようにしている。そのため人と会いたくなった時は思い当たる限り「今日会えない?」と連絡してあってもらう生活をしている。そんなわがままに応えてくれる私の友達、本当にありがとうな。
でも友達と会って大爆笑してその時は寂しさが紛らわされるけど、やっぱり家に帰ると寂しくなる。寂しさの正体は「私って人から必要とされてるかな」「私って人より優れてるのかな」「私って誰かのためになれてるのかな」とかそういう類いだ。
別に誰かのために生きていなくても、人より優れていなくてもいいと思うんだけど、よくいう「生きているだけで偉い」理論は私にはなんの慰めにもなっていなくて、やはり他者からの評価で自分の存在価値をなんとか決めようとしているところが、少し自己肯定感が低いんだろうなと思う。
ちょうど去年の今頃、私は社員登用試験を受けたのだけど、そのために1年かけてとことんしたことが自己分析だった。自分はどんな人間で、どんなことに価値を感じていて、それでこれから何がしたくて…そういうぼんやりしたことをできるだけはっきり言葉にして、面接の準備をした。そしたらなんと、自分のことが大好きになったし、自分に誇りを持てるようになった。その頃平行で好きな人に振られてしまったけど、全く傷ついてなかったくらい高かった。まじか勿体無いなあいつ、と相手に思ったくらいには。
それで晴れて入社したんだけど、そこでの環境で周りの人から否定されることが増えてしまって、せっかく高まった自己肯定感が一気に急降下し、自律神経がぶっ壊れる結果になってしまったのだ。これがたった1年の出来事だと私も信じがたい。
結局「人からの評価」=「自分の価値」になってしまっているから、その評価が受けられない環境では私は壊れてしまう。ここが問題なんだと思う。
幼少期から卒なく勉強、運動、作文、図画工作、いろんなことをこなしてきて通知表はオール5だし、学級委員とか生徒会とかもやっていたタイプで、人から怒られたこともほぼないし、ずっと褒められてきたことばかりだった。だから上っ面の自信は常にあったのだけど、大学の時にそれを疑うようになった。
大学の入学の時に私は自分を変えたいと心から思っていて「自分に自信を持つ」をテーマに新しい生活を始めたことを覚えている。でも振り返ってみるとやっていることは高校生の時までと同じだった。ただ、人より目立っていて「すごい」と褒められたかった。
大学1規模の大きいよさこいサークルの練習長をやったり、めちゃくちゃ練習して女なのに男ばかりの選抜隊で踊ったり、人と違うことをしてみたくてインカレのフリーペーパーの編集部で編集長をやったり。めちゃくちゃ忙しい日々の中、何をしてるんだろう?と疑問に思うこともあったけれど、でも人から「頑張ってて偉い、努力して偉い」と褒められた。
今自分で書いててもなんか私やけに頑張ってたのな、と思う。そんなに頑張らんでもいいよ、とあの頃の私の力む肩を後ろから撫で下ろしてあげたいわ。
でも、結局私はこんなにも自己肯定感の低い大人になってしまった。頑張ってきたのに虚しい結果である。きっとそれも全て人からの評価を受けたい一心だったせいなのだろう。
これからも健康で社会の中で生きていくためには、私は自分の価値を自分で決められる人間になる必要がある。
と、思うんだけどその方法が私にはまだわからなくて模索している。だから、これから何か発見があったらnoteに残していこうかな。結論のない文章でごめんなさい、今まだやっと気づきの段階に来てるだけなのよ。
社会に出てから2度メンタルの不調を経験して、見せかけの自信でなんとか保っていた自分を見つけ直すきっかけを20代のうちに得れたこと、何か意味があるのだろう。そう前向きに捉えて、これからも自分と向き合っていきたい。