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いつでも思い出せるように

小学生のときからなくすことなくずっと持っているものがある。綺麗に線を引くための、長さを測るための、そう、物差しだ。

私が成長していくにつれて、筆箱もその中身も進化していくようにだんだんと入れ替わっていった。あのときお気に入りだった鉛筆も、ペンも、筆箱自体でさえ入れ替わるのに、物差しだけは常に居座っていた。

それは当時の私の素直な心の表れだろうか。親に物を大事にしなさいと言われたことを守っていたから。だけどだんだんと使わなくなっていって、何も考えずに入れていたような気もする。

軽く線を引くだけであれば、分度器でも代わりになるし、六角鉛筆でもいいし、下書きだって端を使えば事足りる。だから物差しはただ持っているだけだったような。


小学生の頃は、何気なく線を引くのが好きだった。フリーハンドでは波打ってしまう線も、物差しを使えば真っ直ぐで綺麗な線になるからだ。

その真っ直ぐな線は、私が引いた線でありながら、小学生の純粋だった私に語りかけていた。どうやらまっすぐで、見事にきれいな心構えについて語りかけてくるようだった。



何事も素直な気持ちを持って向き合いなさい。コツコツと続けていればいつか報われる。人に迷惑をかけたらまず謝ること。人に何かしてもらったら感謝すること。など大人が子供のことを考えて言う大事なことのようだった。先生、両親、祖父母、友達や親戚の言葉一つ一つだったのだろう。

私の筆箱の中には物差しがあったけれど、私の中にはまだ「ものさし」がなかった。先生、両親、祖父母、友達や親戚の言葉一つ一つが私の「ものさし」を作っていた。物心ついた小学生の、私の中の「ものさし」は徐々に形をおび始めた。だが私は使い方を知らなかった。

あの頃の私はもう自分の中にあるものさしで人を判断できると驕りがあったのかもしれない。人を自分のものさしではかっていた。ものさしではかることができるから、心の中でマルをして受け入れる。ものさしではかることができないから、心の中で乱雑にバツを突き付ける。私のものさしは一見正しい言葉で出来上がっていた。だが私は使い方をよく分かっていなかったので、はかることができないものを簡単にはねのけた。

ときに正義は刃を向ける。私は気づかぬうちに人の眼前に刃を向けていたことに気づいていなかった。私のものさしはもう完成している。そう実感したことはなかったけれど、態度に現われていた。意図せず誰かを傷つけたこともあっただろう。


あの頃の私と話すことができるならこう言ってあげたい。絶対的で、一貫して道理にかなう「ものさし」なんてこの世にはないよ、と。これだけは自信を持ってあの頃の自分に伝えられる。

あの頃から今に至るまでなにか決定的に考え方を変えてしまうようなことはなかった気もするけど、私の中の「ものさし」が徐々に小さくなってきたことにはどことなく気づいていた。

私の中の「ものさし」は長さを測って、線を引くにはもうあまりにも短い。世界の広さと、人間の複雑さを実感してしまった今となっては。

これは今の私が過去の私をみた「小さな気づき」だ。

筆箱を開ければいつでも思い出すことができたらいいと、そう思う。

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