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「あの人とあと何回ご飯が食べれるのだろうか」

誰かと一緒に食事に行って、お互いの話をしたり聞いたり、そして楽しい時間を過ごして別れる。いま会っていた人と別れた後に、ふとこんな質問が頭に浮かぶことがありました。

「自分はあの人と、あと何回一緒に食事をすることができるのだろうか」

もともと現在の人間の寿命は長い人でも、100歳前後です。
そうすると、人生で食事をする回数はおおよそ決まっています。
人よりも食事の回数が多いという人でも、人の3倍、4倍と食べることは
ないはずです。

その中で、誰かと一緒にご飯を食べることもあると思います。
けれど、その誰かと一緒に食事をする機会も、実際は限られています。
その回数が人生で何回あるかを、いまの時点で私たちは知らないだけで。

親しい友人であれば、もしかしたら月に一回くらいは定期的に会って食事をしたり、お茶をしたりすることもあると思います。もっと頻度が多い時期もあるかもしれません。会社の同僚であれば、毎日一緒にランチに行くかもしれません。一緒に住んでいる家族、父親、母親、兄弟、姉妹、もしくは子どもであれば毎日一緒にご飯を食べることになる人が多いでしょう。


しかし、今日を生きている今の自分の意識から、ぐっと未来の自分に意識を飛ばしてみます。

例えば、90歳近くなった自分を想像してみます。
その自分にはもうそれほどこの世の中での人生時間が残されていません。
もう外を思いっきり走ることはなくなりました。
1人で自由に遠くまで旅行に出かけたりすることもなくなりました。
親しかった友人もいまは遠くの場所で暮らしていたり、もうだいぶ先にこの世を離れて行った人もいます。
家族も一緒に暮らしているかもしれませんが、お互いに自分の人生があり、いつも一緒に時間を過ごすことはなくなりました。
そして、もうそれほど食事ができる回数も先が見えてきました。
そんな状況で、ふと過去の自分を思い返してみます。

「あの人と最後に食事をしたのはいつだったか?」

つい一週間前に会って話したかもしれません。
前に会ったのは1ヶ月前だったかもしれません。
あるいは、もう何年も会っていない人もいるかもしれません。
更に言えば、もうすでに自分の記憶の中からも消えてしまった人もいるでしょう。

そして、年老いた自分はこんな風に思うかもしれません。

「思ったよりあの人と会う機会は多くなかったんだな。あんなにたくさん会って楽しい時間を過ごしていたし、これから先もまた会いたい時に会えると思っていたが
、そんなことはなかった。思った以上に、私の人生は早く過ぎ、私に与えられた人と会う機会は少なかったんだ。それでも、会ったときには楽しい時間を過ごせたんだから、それはよかったんだ。」

そして、こうも思うかもしれません。

「・・・ただ、あの人とはしばらく前、何十年前になるだろうか。私は余計なことを言ってしまったかもしれない。せっかく久しぶりに会ったのだから、もっと優しくすればよかったんじゃないか。次にいつ会えるかもわからなかったのに、あの人にとって嫌なことを言ってしまうとは。いまはもう連絡先もわからないが、あのときもっと違う時間の過ごし方があったのではないか・・・」

おそらく、私たちが思っている以上に、最後の方に近づいて自分の人生を振り返ってみると、私たちが生きる時間は短い。

どんなに大切な人であってもその人との別れはやってきます。
父、母、娘、息子、祖母、祖父、親戚のおじさんやおばさん。
親友、友人、同僚、上司。

色々な関係の人たちが、私たちの周りの環境に、いま実在していますが、
いずれそれらも過去のものとなり、自分の記憶の中のイメージとなって行くでしょう。

そんな風に考えてみると、今日会う人、明日会う人、これから新しく出会う人や、いま隣にいる人など、大切な人との時間が限られた貴重なものに思えてきます。なぜなら、もしかしたら、今回が最後になるかもしれないから。今生の最後。実際には、これからも何度も会えるのかもしれません。ただ、いまが私たちの目の前にあるときにだけ、私たちはこの時間を思う存分に楽しんで使い切る選択をすることができるのでしょう。それが私たちの人生与えられた結構大事なものなのだと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。




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