SNS考察 〜匿名のアイデンティティ〜



私は以前、『SNSにおけるコミュニケーションについての考察』という記事を記した。それらを記したのは2017年であり、すでに2年が経過している。よって、その間少しばかり気づきを得たので、断片的にではあるがまとめたものを以下に記した。


1. ソーシャルネットワーキングサービス(以下SNS)は、人間のコミュニケーションに自由をもたらした。全く知らない人々とも(もちろん、知っている人々とも)ボタン1つで繋がることができる。すなわち、ボタン1つで、全く知らない世界、他の人々の人生を垣間見ることができるのである。これは画期的なことだ。SNSは、普通の人生ではたかだか数百名程度であったはずのコミュニケーション対象者を増大させ、選択肢を与えた。

2. SNSは、日常とは異なるアイデンティティを与えてくれる。例えば、日常では家に閉じこもり、特に社会的な影響力を有していない人であっても、一度インターネットのような仮想空間にそのアイデンティティを築くと、多数の人々とコミュニケーションを交わすことができる。まさに、外界(*1)とは異なる非日常のアイデンティティで仮想空間に生きることができるのである。このことは、様々な人々に自己を確認する"場"を与えた。"場"という概念はとても重要である。空間を構成する基礎としてその場があるだけで、日常から救われる人々が多数いる。この"場"を構成する原動力は、匿名性である。匿名性が人々のアイデンティティを日常から脱出させる鍵なのである。

3. 匿名性は、コミュニケーションを対等にする。たとえ社会的なポジションをすでに確立している人がプロフィールを全く明かさずに匿名でSNSへ投稿したとしても、その投稿内容を流布する範囲は限られるだろう。匿名性は、資本主義社会において人間が産まれた際にすでにある初期値、特に生まれてくる親を選ぶことができない、という外界に存在する必然的な社会的ポジションから一時的に解放する役割を果たす。

4. その解放の確認、すなわち仮想空間上でのアイデンティティの確認が曖昧で真偽不明な自然言語体系を用いて行われる場合、前回記事『真偽不明のアイデンティティ』において記した通り、真偽不明にもかかわらず、あえて各人が命題を提示する。この命題の提示そのものが自己のアイデンティティの確認となっているのである。"いいね"や"リツイート"をされればされるほど自己のポジションを確認できる。そのため、より自己を確認しやすい命題を提示するのである。そこに、真偽は介在しない。

5. 人々は共感性を有する人々とつながりやすい。これは、共感することと自己存在を確認することが似たような様相(*2)であるからである。共感可能な主張を自己選択的に選別できるSNSは、より自己の存在を確認しやすく、また一方でアイデンティティにとってリスクが低い方向へ促される。その現象が各人に起こると、共感可能な命題から構成される空間によって、そのコミュニティがいわば、"いいね"で閉じることになる。

6. SNSを代表するサービスの1つである、『Twitter』は、特に日本において盛んらしい。日本語が内包する1文字あたりのエントロピーの高さ(*3)がそれを助けていると考えられる。また一方で、もう一つの要因も考えられるのではないだろうか。それは、アイデンティティを前提としない文化である。そもそも、日本語でアイデンティティに相当する言語がない、ということはその概念そのものが日本になかったと言っていい。ネットインフラが世界で最も高度な国の一つとなった日本では、各人がインターネットに容易に触れることが可能となった。そこでは、ネット検索に代表されるように、無限の選択肢から有限の選択を行う必要にかられる。誰とでも、いつでも、どこでも繋がることができるサービスは、いわば無限の選択肢を有限に落とし込む、すなわち自己選択という名の次元の削減を行わなければならないのである。数あるデータ企業は、各人の自己選択の結果をベイス的手法によって蓄積し、活用することで、『自己』のデータを用いて『自己』の選択肢を減らすサービスを勃興させている。ネット空間においては、私たちは必然的にかつ無意識的に自己選択させられる。高度なネット社会において可能となる自己選択は、いわば、「私」を形作らざるを得ない。選択することによって「私」が私たりうる現象が起こる。そこで適応した人々には、アイデンティティという概念が無意識的に促される。日本が文化的に有していなかったそれらの概念は、ネット上では容易に実現する。しかしながら、日本における仮想空間の外、すなわち外界においては、アイデンティティという概念が、特殊な年功序列構造および上意下達構造に代表される"見えない空気"によって文化的に許容されづらい。この歪みはまさに、外界と仮想空間の歪みとなり、外界への適応を損なう恐れがある。この歪みを解消するには、仮想空間に逃げるか、仮想空間から逃げるかの2通りである。『Twitter』で普段日常では語ることができない本音を語る人々は、社会や文化における抑圧の反動ではないだろうか。それは、文化許容に対する極端な硬直によってもたらされているのではないだろうか。このことに気づいていない企業や学校はこれからも、すぐに辞めてしまう人々や、不登校になってしまう人々を犠牲にし続けるだろう。


*1 本論における外界とは、ネット空間等に代表される仮想空間"外"の世界のことをいう

*2 「共感すること」と「自己存在を確認すること」は似たような様相ではあるが、実際は異なるものであると私は思う。それらが同じものであると解釈されることそのものが、その当事者を孤独たらしめているのではないだろうか。

*3 G.Newbig,K.Duh (2014)「ツイートの情報量について ー情報理論に基づく多言語調査ー」(言語処理学会(2014))




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?