楽曲派?疑似恋愛?戦国時代後のアイドルの推し方
改めてアイドルファンにおける楽曲派というものを再考する。
アイドル戦国時代という言葉を聞かなくなって久しい。
コロナ禍は収まったわけではないが、個人の判断に切り替わったことで、現場に集客するタイプのビジネスも再開してきている。
他方でサブスク配信がCDなどのフィジカル販売にとって代わって主流になってきた。アイドルを取り巻く状況は変化はしている。
楽曲派って、ある種の照れ隠しというか「自分はあくまで曲が好きなのであってアイドルちゃんが好きなわけではないですよー」的な、エクスキューズとして理解されることが多かったように思う。
それに対しては「素直になれよ」と同じ穴のムジナであることを指摘したがる声も少なくなく、私自身楽曲派を自認するアイドルファンとして、自分でも疑わしく思うところはあった。
CDが売れなくなった時代の最後っ屁として、接触に代表される特典会商法があったわけだが、同じCDを何枚も買わせることによって、CD1枚1枚に対する思い入れは減って、CD文化はトドメを刺されたようにも思う。
「票数は愛」であることを否定はしないが、阿漕なことをやっていると筒抜けであった。フロントマンであるアイドルに罪はなくとも、その片棒を担がせる構造であったことに忸怩たる思いがある。
構造自体は「キャバクラと同じ」とか「だったら風俗行け」とか当時から言われていたけれど。
アイドルを好きになることを、疑似恋愛として捉えることにも疑問はある。や、秋元康も疑似恋愛って言ってたからそう捉えるほうが主流なのかもしれないが。
疑似恋愛なら端的に、他のファンの存在なんか見たくない。いわゆる推し被り敵視や同担拒否でしょと思ってしまう。
ガチ恋・リア恋、ワンチャン叶うかもしれない。現代のアイドルはSNSもあるし手の届く距離の存在になってきたとも思う。
だからこそ九鬼周造の言葉を借りるなら、野暮なんじゃないか。
ライブ部分をなくし特典会を拡大したようなイメージのコンカフェという業態も出てきたけれど、それで改めて気づいたのは、あくまで曲の中で歌って踊るアイドルが好きだったということだ。
自分も含めてお客さんと飲み食いしながら喋っている姿を見ても一般人を見ているのと変わらない。どうせ飯代を出して一緒に食事をするなら、姪っ子や甥っ子をご飯に連れて行くのが先だし安上がりだし、何より将来に責任が持てる。
ガチでリアルに恋してるなら、相手の将来に責任を持ってこそだ。
歌わないし、曲をリリースしない一般人のファンでいられるのだろうか。
私はお客様ではなくファンでいたい。お客様は神様だから、ファンでいることで一蓮托生の責任を持てているのだと思っていたよ。