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ピンク色に炊けた珈琲豆

うまく焼けた珈琲豆は、焼き上がりがピンク色に見える。

 勿論ほんとうにピンクの色味をしているわけではないし、上手く説明できないけれど、感覚的に「ピンク色だ」と思うのだ。
 そして「焼けた」というよりも「炊けた」というのが似合う、ふっくらとした豆になる。

 今日は珈琲豆を2種焙煎した。ドミニカのワイニーと、スマトラマンデリン。
やっと…やっと(よし!)という仕上がりに焼けた気がして嬉しい。
ずっと失敗続きで、前回ようやく飲める仕上がりになったものの、豆の見た目も焼きの深さも思うようにいかず。
結構無駄にしてしまったけれど、今日ようやく焼き上がった豆の顔を見て「美味しそう」と思うことができた。

焼き上がりの豆がピンク色に見えると、お!と思う。
これは自分の小型手廻し焙煎でも、店の豚釜でも同じこと。
焼き上がった豆を何度も見ていると、なんとなく解るようになること。
(ひとによっては“赤い”と表現することもある)

 数値で管理できないアナログ手廻し焙煎なので、毎回ブレるのは承知だけれど
前回まで、毎回なんだか元気のない白っぽいあるいは黒っぽい豆に仕上がってしまって…
自分の経験もアタマも足りていないことが全てではあるものの、やはり焙煎は私には無理なんじゃないかと弱気になっていた。

 最近気付きつつある自分の悪い癖、そしてそれと表裏一体の持ち味。
ちゃんと理論で理解しようと、必死になるとだめなのだ。

自分の目、耳、鼻、五感を信じて豆に触れること

  • 火は数値だけでなく炎を目で見ること

  • 蒸気の色、匂いの変わるタイミング、それらを信じること

  • 煎り止は全身全霊集中して、豆と会話するように
    3.5、3.6、3.7…(これは私の中の、豆の色づきの指標)
    色を数えて「ここだ」という点を見極める。

そうすると豆の方から「ほうら」と言わんばかりに、ふくふくに膨らみ冷ませば綺麗なピンク色を見せてくれる。

 今日はグラムも豆も違う二種とも、狙った色に上がってくれた。
この2つをブレンドしたら、きっと素敵な色になるだろうと、想い馳せながら焼き上げた。


最近の珈琲や仕事をする上で目指す感覚


「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」
で有名な詩人・茨木のり子さんの『こわがらない』という詩が好きだ。

一芸にたけた人は
物をこわがらない

老練の仕立屋は
おそれげもなく高価な布をザキザキ切る
突き抜けた画家は
純白の画布の前でたじろがない
鼻息まじりの落書きにみえる
すぐれた外科医のメスは
静かにすばやく暗がりのお医者さんごっこのように何気ない

茨木のり子詩集 より

そんなふうに始まるその詩は、あらゆる仕事において極めた人は、物の方から吸い付くように、熟されていく。
そういうようなことを詩っている。
 私も、珈琲豆の方から綺麗に色づくように、点てた液体がトロリと自分の手から溢れるように、そんなふうに珈琲や仕事を熟していきたい。
(ちなみに最近、洗い物においては食器の方から洗われに来ているような感覚はある。)


ドミニカ バラホナ ワイニーナチュラル 中深煎り
写真が少し明るいけれどど、深め。ワイニーな香りでてる
失敗続きだった、スマトラ マンデリン バタックブルー
シワが伸びて、ツヤっと。センターカットもふっくら焼けた
勿論ピンク色ではないが、なんとなく見える(見えないか)



p.s.
自分のための気持ちの清算

 少し前、珈琲や色々なことの感性や感覚についての話をよくする方で
私が珈琲と触れて気づいたことを話すと
「その感覚は、あなたの財産ですよ」
と言ってくれた人がいた。

 その言葉をもらったとき、ずっと探していたものを目の前に差し出されたような、嬉しさと安堵のようなものがあった。
ずっと抱きしめていたいようなその言葉が、今日豆を焼き上げたときになぜかふと、思い出されて
なぜだか涙が止まらなくなってしまった。
 その言葉を掛けてくれた方とは疎遠になってしまつまったけれど、このことは忘れなくて良いのだと、自分の中で清算された気がした。

 秋だから感受性が鋭くなって、おセンチになっているのだろうか…
豆が上手く焼けるたび涙流してたら身がもたないわ!と思いながらも、小さな感覚的な気づきや気持ちの変化も、大切に見逃さないよう生きていきたい。

今日のピンク色の焼き上がりが、ただのまぐれで無いことだけを祈る。(あと飲んでみて美味しくあること・・・これ一番だいじ。)

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