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一日一頁:井筒俊彦『イスラーム生誕』中公文庫、2003年。

作家の大江健三郎に導かれて井筒先生の最初期の著作を紐解く。

これほどの情熱をもって仕事をしているのか自分に問いたい。

時間がなくても1日1頁でも読まないことには進まない。

 ムハンマドは私の青春の血潮を湧き立たせた人物だ。一生の方向を左右する決定的な一時期を私はこの異常な人の面影とともに過ごした。彼は至るところ私についてまわった。第一に生活の環境がそれを私に強要したのだった。朝起きてから夜床に就くまでアラビア語を読み、アラビア語を喋り、アラビア語を教え、机に向えば古いアラビアの詩集やコーランを繙くという、今にして憶えばまるで夢のような日々を送っていたその頃の私に、ムハンマドのことを忘れる暇などありようもなかった。しかも精神的世界の英雄を求めて止まなかった当時の私の心は、覇気満々たるこのムハンマドという人物の魁偉な風貌に完全に魅惑されていたのだった。あの頃の生活の狂躁がようやくおさまり、あたりを取り巻いていた喧囂の声も仄かな潮騒の音にしか聞えなくなってしまった今日、書肆の要求に応じてムハンマド論の筆を執るべく憶いを彼の上にひそめてみれば、髣髴と眼底に浮かんで来るこの熱情的な沙漠の児の面影とともに、青春の日のわれとわが身の様々な姿が幻想のように次々に忘却の淵から現われて来て、自らにして起る胸のさわめきを禁じることができない。

井筒俊彦『イスラーム生誕』中公文庫、2003年、22-23頁。

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氏家 法雄 ujike.norio
氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。