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一日一頁:鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年。
おなじくまえがきには「ものを長い眼で見る余裕がなくなったと言ってもいい」とある。
たしかに、私たちの社会は、超短期的な成果にのみ鎬を削り、あらゆるリソースが投入され続けている。「百年の計」などとは言わないが、それでも「考える余裕」のないところに豊かさは生まれない。
待たなくてよい社会になった。
待つことができない社会になった。
待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せて、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ。待ちこがれ、待ちわびて、待ちかね、待ちきれなくて、待ちくたびれ、待ち明かして、ついに待ちぼうけ。
待てど暮らせど、待ち人来たらず……。だれもが密かに隠しもってきたはずの「待つ」という痛恨の想いも、じわりじわり漂白されつつある。
携帯電話をこの国に住む半数以上のひとが持つようになって、たとえば待ち合わせのかたちが変わった。待ち合わせに遅れそうなら、待ち合わせ時刻のちょっと前に移動先から連絡を入れる。電話を受けたほうは、「じゃあ」と、別の用を先に片づけたり、ふとできた空白の時間を買い物や本探しやぶらぶら歩きに充てたりできる。待ち時間のすきまに、コーヒーを飲みながら、ほんやり街ゆくひとを眺めていることもできる。待ち人は前立つこともなく、待つとはなしに時間を潰せるようになった。
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