Dead Poets Society(1989)
映画『いまを生きる』
原題:Dead Poets Society(死せる詩人の会)
映画の最初から最後まで、「生きた」詩だった。
生きてなかったかのように、生きる、ことがどれだけ恐ろしいか。
僕らはそれに気づいているだろうか。気づいているのに、気づかないふりをしているのか。気づかないまま、死んていくのか。それはどれだけ恐ろしいことか。
だから、あの子は窓を開け、冠をかぶり、拳銃を手に取り、引き金を引いた。
校則4柱、拘束4柱。
いまを生きる。
僕らはいまを失う最中にある。
僕らはいまを迎え入れる。
僕らはいまを生きる。
あの子は冬の朝に去った。あの子の友人が、声にならない声で、雪原の向こうに躓きながら走っていくシーンが脳に刻まれている。鮮烈に。
あの子は冬の朝に去った。いや、あの子は雪の妖精になったのだ。雪原の向こうの向こうに、きっとあの子がいるはず。幹の後ろから、あの眼でこちらを見つめている。
あの子はやっと「生きる」ことができたんだ。
あの子は静かに生きるため森に入った。
生きることに駆り立てられたように口から出た詩は、あまりにも心を揺さぶるものだった。花が開いた瞬間を目にしたようだった。
船長の導きにいでた詩は、ことばは、眼差しに宿る光は、太陽が沈む森を背景に駆け回る妖精たちは、船長がそれらを引き出したのと同時に、それらがもとからあの子たちの中にあるものだと、思い知らせた。
生まれたときから、僕らは生きていた。「生きる」ことを教わらずに生きていた。
僕らは獲得して生きていく。僕らは失って生きていく。
僕らならざるものを獲得した。僕らを失った。
机の上に立ったあの子たちに、涙を流さずにはいられなかった。
あの子たちは「生きる」を学び、「生きる」ことができることを、船長はその目で確かめた。
大丈夫、君たちはこの先も、きっと生きていける。
それを願って、もう一度言おう。
おお 船長 我が船長