なにいろ
何かイヤなことがあったときに、ちょっと帰りたくなる実家のような場所だなと思う。私にとってのnote。
あらためまして。
自分の中で何かが一段落したように感じるので、名前を変えました。
ずいぶん穏やかな日々の中にいるのだけど、それでもやはり胸の中にジカッと強い痛みが走ったり、
ザワザワとした黒い風が頭の中を吹き荒れて眠れなくなったりすることが起きる。
だいたいそういう痛い出来事は、家の中で起きる。
強い痛みが走るのは、ほぼ家族の揉めごと。
私には、何かあったときに逃げ込める実家というのがない。
ない、は正しくない。私が今いるのは実家だから。
気持ちの落ち着くことのない家。
逃げ場がないので、常に自分と向き合い、自分と会話するしかない。
日頃使っている日記帳は、わけのわからない自分との会話ばかりが書き殴られている。
20冊以上あるのは確かだけど。
イヤな気持ちを書き殴るノート。私の鬱憤をいつも吸い取ってくれる。
もう慣れ切ったその方法、たぶんこれから先もずっと続けていくのだろうなと思う。
誰かに向けて公開するのがためらわれるようなドス黒い気持ちも、自分のノートなら安心して全部を吐き出せる。
まあ、人が読んでも全くわけがわからないだろうけど。
でも、
私が何か違う形での表現手段を持っていたら、鬱屈とした状況が起きても少し違う目線で見ることができるのかもしれないのに、と思う。
表現手段を持たないことが悲しい。
自分の中でザワザワとした嵐が吹き荒れたとき、その嵐に色をつけてあげられたらいいのにな。
私は嵐をどんな色に彩色するだろうな。
今までたくさんの嵐が私の中で起きた。
本気で「じぶんち」に火を点けたくなることが何度もあった。「こんな家、消えてなくなってしまえ!」と。
本気でそう思い詰めたことが数え切れないほどあった。踏み留まれたのが不思議だと思えることもあった。
そんなときの嵐の色は、やっぱり真っ赤かな。
たぶん、そのときそのときの嵐も、それぞれ違う色になるんだろうと思う。
一つ一つの嵐、ただ思い出すだけでも死ぬほど苦しかったのだけれど、少し自分の気持ちが変化してきたなぁと思う。
どんな嵐が起きたのか、思い出すことが怖くはなくなり、そして不思議と思い出すことが難しくなりつつある。
それに比例して(反比例して?)、「消さずに全部残しておきたい」ような気持ちになってきている。
あれほど苦しかった記憶を「消さずに取っておきたい」なんて!?
驚き以外のなにものでもない。
『嵐』の記憶を頭の中から取り出して画像に変換して、プリントアウトして全部に色をつけてあげたい。
たぶん、コピー機から出てくる枚数が多過ぎて、
そろそろ壊れそうな私の部屋の家庭用コピー機が本気で壊れるだろうな。
『私の嵐』展、いつか開催したい。
作品展が開催できる頃には、私の頭の中の記憶は透明になっていたりするだろうか。