人生の楽しみ方
人それぞれ考え方は様々です。
何をその人の楽しみとするかは勝手ですが、その楽しみが他人を巻き込むようなものであってはなりません。
たとえば、歌を歌うのが好きな人がいたとします。
歌を歌うのは楽しいですね。
でも、それを誰かに評価して欲しいと考えて歌うのは本当に歌が好きとは言えません。
なぜならその人は、純粋に歌を歌うのを楽しんでいるのではなく、歌を歌っている自分を評価して欲しいと他人を巻き込もうとしているからです。
本当に歌を歌うのが好きなら別に他人からの評価は必要ありません。
人生を楽しむうえで陥りがちな落とし穴がそこにあります。
つまり、自分自身が楽しもうとせず、他者からの評価で自分を満たそうとしてしまうのです。
人生を楽しむのに他者からの評価は必要ありません。
他者評価に引きずられてしまうと、むしろ楽しめなくなります。
「上手に歌いたい!」
一体誰にとっての「上手」なのでしょうか?
自分の中で目指す目標があってそこに向けて「上手」になろうとするのと、他者からの評価を得ようとする意味での「上手」では全く違います。
こういうことが日常の些細なことの中にも本当に多いです。
気づかないうちに他者からの評価を気にしてしまう自分がいます。
わたしがまさにそうです。
「こんなことを言ったら嫌な気分にさせるかもしれない」
「こういう反応をすれば分かってもらえるかもしれない」・・・
もはや無意識レベルで他者からの評価を気にしているのではないかとさえ思えてきます。
その一方で自分の意見は大事にしたいです。
自分の意見を大事にしないとなんだか自分を大事に出来ていない気がしてくるのです。
他者からの評価を気にするのは、自分を自分で傷つけて他者の思い通りに振る舞おうとするみたいでとてもつらいです。
一体いつから他者からの評価を気にするようになってしまったのでしょうか。
わたしたちは生まれた時から家族、学校、会社等々たくさんの人間関係の中で生活しています。
その中で集団に上手く順応する能力が求められてきたように思います。
目上の人に歯向かうことなく年下には優しく振る舞う。
そうした振る舞いが推奨されてきました。
でも、本当の自分の気持ちに蓋をしてそうした振る舞いを続けていると、自分という存在に虚しさを感じてきます。
「役割として存在する自分・・・」
「役割」とは、「兄」「社員」「子」「学生」等々。
その「役割」を演じているにすぎないのです。
それに気づいた時、その「役割」を演じ続ける人生で本当によいのか?という気持ちになります。
反発心というわけではありません。
わたしはよく、
「人生は一度きり」ということを考えます。
一度きりの人生を「役割」で片づけてしまってよいのか。
それではせっかくの自分の人生が「もったいない!」と思うのです。
別に明確に何か挑戦したいことがあるわけではないのですが、ただのんびり暮らしたい。
新たな価値を生み出すわけじゃないけれど、自分の人生を大切に生きるために全力を尽くしたい。
そのために知恵を耕す作業をお仕事にしていこうと考えています。
わたしは学生時代、法学を専攻していました。
法学を選んだ理由は、正直に言うと、たまたま進学できた学部が法学部だったからというだけです。
でも、わたしにとって法学は自分に合った学問でした。
法学は、法律の使い方や作り方を学ぶ印象が強いですし、実際、多くの法学部では法律の使い方や作り方を学びますが、本質的にはそれは法学ではありません。
法学とは、なぜ法が必要なのかを考える学問です。
人が社会生活を営むうえでどういう法が必要になるでしょうか。
もしかすると人はこの世にたった一人しか存在していないとしても法が必要な場合があるかもしれません。
それは一体どういう場合でしょうか?
法学はとても身近な疑問を考える学問です。
だからこそ面白いとわたしは思いました。
別にたくさんの知識は本来必要ありません。
「なぜ?」を追究するのが法学です。
わたしは法学の博士号を持っているわけでも法学部の教員でもありませんが、法学者としてお仕事したいと考えています。
突然何を言い出すのかという感じですが、わたしはいつも疑問に思っていることがあります。
なぜ、大学に雇われた人しか学者と呼べないのでしょうか?
大学に雇われていない民間の学者を、「在野研究者」とか「独立研究者」と表現することがあります。
その中で、〇〇学者と言うことは自主規制されている風潮を感じます。
別に学者って名乗っていいとわたしは思うのです。
わたしの場合、法学者というお仕事がしたいと思うから法学者です!と言いたいと思います。ただそれだけの話です。
別に大学を出ていなくても学者として名乗っていいはずです。
その分野を究めているのですから。
わたしは、自分の人生に全力を尽くすために法学を究めようと思っています。
とてもワクワクします。
大学生の頃、わたしは、裁判傍聴や刑務所参観、弁護士会主催シンポジウム等いろいろと足を運んで学びました。
学校を出てからは社会人として色々とお仕事をする中で人間関係に引きずり込まれるつらい経験をしました。
そうした経験は、法学を究めるうえでとても必要だと思います。
法学は実社会で揉まれないと本質を掴めません。
その微妙な肌感覚は、日々自分自身の平衡感覚を磨くことです。
誰かのために尽力する人生よりも自分のために全力で人生を楽しみたい。
そう思った時に、わたしは学生時代楽しかった法学をもう一度究める挑戦をしてみたいと思いました。
そして法学者として暮らしていこうと思いました。
いまわたしは、Misaki oasis labの代表です。
そのわたしが、ライフワークとして法学者を選びました。
Misaki oasis labを起業して1年が経ちました。
自分の成長を日々実感しています。
Misaki oasis labでは、自分が楽しいと思えることをするということをモットーにして活動しています。
その中でわたしは自分の楽しみとして法学を選んでみました。
さきほど触れたように大学進学で法学を選んだ理由は偶然でしたが、学問に熱中した時間はとてもよい思い出です。
人生をいかに楽しむかは、熱中できるかどうかです。
熱中するのに他者からの評価など気にしてはいられません。
自分自身から湧き上がる「やってみたい!」を信じる勇気が必要です。
一番の失敗は挑戦しないことだということがよく言われますが、本当にそうだなと思います。
何事も挑戦してみないとわかりません。
挑戦するためには勇気がいる時もありますが、「一度きりの人生」楽しみたいです。
「楽しむ」とはどういうことでしょうか?
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