ポッケに心理学|後悔することと、後悔し続けることは、全く違う。
はじめに、
わたしの本職は心理職である。
主な専門分野はトラウマである。
具体名は避けるが、職場は国内最大にして最も困難な相談を扱っている。そのような立場のため、本職の相談室外で、専門的行為に及ぶことは極力控えている。
いまのところは。
それでも、わたしに出来ることはある。
専門職としての経験と知識、そこに自分自身の過酷な人生経験を混ぜ合わせてできた魂のような実、そこから抽出される養分のようなものを、濾過して、濾過して、濾過して、純度と透明度を高めて、できあがったものを言葉にして、届けることだ。
これは、直接的なカウンセリングには当たらない。
この『ポッケに心理学』や『命の物語』と題したno+e記事は、その濾過したものの言葉を紡いで書いている。
これらは心理職としての
わたしの『仕事の流儀』である。
その言の葉の糸で紡いだ布である。他の者には決して紡ぐことはできないだろう。なぜなら、これは、わたしの魂からできたものだからだ。わたしの命の煌めきのようなものだ。誰かを包み、温め得ることを願っている。
今回の『ポッケに心理学』は、以前にいただいた質問に対して、その糸と布を使って、返答を包んで贈るものだ。いま、同じような立場にある、また悩みを持つ、もしくは状況にあるあなたに寄り添う言葉になればと思っている。願っている。切に願っている。
no+eという繋がりを通してはいるが、
36.8℃の熱を持つあなたの友人として。
心理職だって、人の子だ。悩みもすれば、傷つきもする。鬱にもなれば、パニックにもなる。焦りで我を忘れもすれば、うまく行かずに苛立つこともある。眠れぬ夜もあるし、震える夜もあるのだ。
あなたと、同じように。
わたしも、あなたと同じように心と身体を持つ人間なのだ。姿形は違えど、内容物は同じである。育った場所や時間や環境は違えど、同じ星で生きている。同じだから伝えられる事がある。そして、それは、伝わらないこともあるけれど、伝わることもある。
まず、いただいた声を紹介しよう。無加工の、生の、声だ。
あなたから、わたしへ。
わたしから、あなたへ。
あなたの『後悔』をふくんだ声を、わたしの心と身体からなる土壌に撒いてみます。水のように。しばし待ちます。すると、『後悔』は不安のタネへと姿を変えました。
『後悔』も『不安』も、それ自体が悪いものの訳ではありません。どちらも、心と身体の要素であり、養分でもあります。つい、嫌われものにされがちですが、これは、どちらも、『心と身体を持つ命』がよく働いている証左だと言えます。よく働くことは生きるうえで欠かせません。でも、
働き過ぎは、時に命を苦しめます。
なぜなら、命は一方向だけに進むようには作られていないからです。(より詳しく知りたい方は、『文字は意識を変えるだけ、心と魂と命は癒せない。』を参照。)
たとえば、「やっちゃった!」「しなければ良かった!」。この働きが過ぎると、『いま、ここ』を生きられなくなります。すると、心と身体が過去に縛られるようになります。
この心身の状態を、後悔と呼びます。
心身と書かれていることに注目してください。わたしたちが過去に縛られているとき、心と身体は、過去に起こった(感じた・抱いた・体験した)心身の危機や危険に対して、心と身体で対処しようと頑張っています。だから、
後悔は、過去の心身の危機や危険に対して、心と身体で対処しようとする命の過労でもあります。
一方で、「どうしよう!」「大丈夫かなぁ」。この働きが過ぎても、『いま、ここ』を生きられなくなります。すると、未来に縛られます。
この心身の状態を、不安と呼びます。
後悔と同じように、わたしたちが未来に縛られているとき、心と身体は、未来に起こるかもしれない(感じている・抱いている・体験している)心身の危機や危険に対して、心と身体で対処しようと一生懸命頑張っています。だから、
不安は、未来の心身の危機や危険に対して、心と身体で対処しようとする命の一方向的な過活動による疲労でもあります。
後悔も不安も、心身の危機や危険への一時的な対処です。危機や危険が過ぎれば元の状態へと戻ることが通常です。命の本来の姿です。
しかし、何らかの理由によって、心身の危機や危険に対処するための後悔や不安が惹起され続けることがあります。緊急事態から非常事態となり、異常事態へと変化します。こうなると、命を継続するための対処が、命を損なう行為へと変貌します。本末転倒です。命を損なう行為は、神経系の許容範囲を超えた時、様々な心身の症状を経て疾患へと向かいます。これが病です。現代の医療では(例えば、ICD-11やDSM5)、診断名と呼ばれるものです。本来、命の対処と呼ばれていたものの成れの果てです。
これが、後悔することと、後悔し続けることは、全く違うといった、わたしなりの理由です。
では、それを防ぐにはどうするか。
わたしなりのコペルニクス的転回を試みます。
人間は、心を持った存在です。心を持つことにより、物質的な世界にはなかった、もうひとつの世界ができました。
心の世界です。
精神医学や臨床心理学の世界では、よく安全と安心が大切だと言います(安全と安心についての私見は別の機会に譲ります。)。この安全と安心は、物質的な世界と心の世界どちらの世界にも当てはまることです。『物質的な世界と心の世界』と『安全と安心』、各々の組み合わせ(2×2のマトリックス)について考えることは、様々なパラダイムシフトを生みます。ここでは、ごちゃごちゃしてしまうので、深くは掘り下げません。興味のある方は、各々の組み合わせがどのようなものかについて考え、感じてみると、人生がより味わい深いものになります。(〇〇道、というものを嗜んでいる方にはイメージしやすいでしょう。)
先へと進みます
後悔にせよ、不安にせよ、囚われている自分(心と身体)を変えることのできるのは、世界にひとりだけです。
いまの自分です。
『いま、ここ』を生きているあなた自身です。
ほかの人には変えられません。過去の自分にも変えられません。未来の自分にも変えることはできません。いまの自分だけです。誰かの言葉や、何かの出来事によって変わったと思うのは、意識の錯誤です。わたしたちの脳細胞は、有酸素エネルギー代謝に左右されるようにできています。簡単に言えば、脳は要領良く怠けます。ほら、私たちって、何かと怠けようとするでしょう(笑)? その要領良く怠けた勘違いの連続が、理解を生みます。つまり、
理解とは、誤解の一種なのです。
「変われない」ということは、その変わる権利を、もしくは変わるための操縦桿のようなものを、いまの自分が手放している状態です。ほかの誰かに渡しています。未来なら幻影、ファントムです。過去なら亡霊、ゴーストです。どちらも、この次元にはないホログラムのようなものです。
でも、その黒幕は、いまの自分です。どちらの背後にも、心の奥の方に「手放したくない」という強い想いが、ある。その強い想いは、日の当たる場所からは見えないかもしれません。その場所を無意識と呼びます。だからこそ、その「手放したくない」という強い想いを手放し、外に出してあげられるようにすることが、意識の変化をもたらすことに繋がります。(ここで言う『意識』は、身体との繋がりのある意識、つまり『心』のことです。身体との繋がりのない『意識』とは分けて考えます。極端に言えば、前者はアナログであり、後者はデジタルです。)しかし、
それには、時間がかかります。
前章で紹介した質問者の『声』のなかに「はやく」とありました。きっと、多くの人がそうでしょう。辛い時間、嫌なことは、早く過ぎて欲しいものです。わたしだって、そうです。分かっていても、専門的な知識や対処法があっても、です。この「はやく」という想いが重しになり、手放すための歩みを遅くします。固着と呼びます。
何度も同じことを言いますが、草木をはじめ、命が育つためには、それぞれ必要な分だけの時間が必要です。残念ながら、物理的な時間というものは、まだ証明されてはいません。そのような時の流れがあることを、私たちの心と身体が経験知として備えているに過ぎません。時間に縛られることで、コスパやタイパが当たり前のように、良いもの、正しいこととして捉えられているのは未来から現在に対する皮肉です。それは時間へのしがみ付きです。その背景には、生へのしがみ付きが存在します。
誰だって、死にたくはないですから。命の本懐です。ですが、例外なく、わたしにも、あなたにも、ほかのものにも、終わりは訪れます。この世界にも、星々にも、宇宙にも。この『終わりがある』ということを、受け入れなくとも、知っておくことが肝要です。それで、こんな宇宙の果てまで来て何が言いたいか。
待ってあげてください。
わたしたちのデジタル社会は、わたしたちを待つことが苦手な生きものへと変容させています。既読、DMやメールの返信を皮切りに、更新やアップデートはもちろんのこと、電車、信号、レジ会計に電子レンジで、イライラ、イライラ、ソワソワ、ソワソワしています。ひいては、こどもが泣き止むことや相手の返事や相槌さえも待てなくなっています。関係性の崩壊と自己中心性の肥大化です。もはや、スマホ老眼と若年性更年期は、十代の病です。心だけでなく、身体をも病む時代へと突入しています。
だけど、待ってあげてください。変わりたいけれど変われない、いまの自分を。そして、くよくよする自分を受け入れてあげてください。それも、大切な、自分として。
寄せられた声のなかには「後悔を保っておくことで良いものがあるのか」という質問がありました。保っているのは、他でもない自分自身であるということに気づくことが大切だと、わたしは思います。なぜなら、そうすることで、今この瞬間からの、あなたの致し方が、無意識下で変化するからです。
養い方ひとつ、耕し方ひとつ、例えそれが小さな工夫でも、そのような工夫により、後に育つものには違いが生まれてくるでしょう。心という土壌に、焦るという栄養を与えると、後悔という過去に蒔いたタネが芽を出し、未来に不安の花を咲かせます。
一方、受け入れ、見守る工夫をすると、過去のタネに必要な栄養が行き届き、きっと、自分の可能性という花を咲かせます。その花には、実がなり、これまでとは別種の新しいタネが取れるかもしれません。
そのタネは、まだ、自分でも知らなかった、あっと驚くような綺麗な花を咲かせるかも知れません。そして、それは、その人自身を映す姿になるかも知れません。
以上が、今回の質問と、繋がっているあなたへの、わたしからの贈りものになります。よろしければ、ちょっとしたお守りとして、あなたの心のポッケにしのばせておいてください。
おわりに。
今回は、『X』で行なったアンケート結果(図1)を受けての記事になります。わたしの本職は心理職ですので、本来は、SNS上での専門的行為はしません。今は、誰もが、簡単に大量の情報にアクセスできます。大量過ぎて探すのも一苦労なので、まとめサイトやまとめ発信者も沢山います。需要と供給のバランスです。ここにも命のふたつの方向性が隠れています。ただ、
情報や二次利用された文字と言葉は、一時、意識を変えることができても、心と身体と命を癒すまでには至りません。では、
なぜ、わたしは、そういう文字や言葉を使って、このようにまどろっこしく書いているのか。それは、
これを読むあなたとの繋がりがあるからです。
その繋がりが強ければ強いほど、太ければ太いほど、わたしのこのただの文字のまどろっこしい文章は、その繋がりを通って、あなたの心と身体と命に届くからです。
文字だけの繋がりは希薄なものです。声が聴きたくなります。声という波の振動が厚みを作ります。昨今、デジタルからアナログ回帰の動きが加速しているのは、そうゆう理由です。
しかし、それらは対面の出会いの豊かさに勝ることはありません。対面の出会いでさえ、心が離れていては、または、身体から離れていては、一瞬で干涸びた脆い繋がりになってしまうでしょう。これは諸刃の剣です。つまり、
繋がりは、癒やすことにも、傷つけることにもなり得るということです。
これを、関係性、と呼びます。
わたしとあなたの関係性はどうでしょうか?あなたとあなたの周りとの関係性はどうでしょうか?あなたとあなた自身との関係性はどうでしょうか?あなたのこころとからだの関係性はどうでしょうか?あなたの命とたましいの関係性は?
その関係性によって、言葉は毒にも薬にもなります。そして、この
関係性自体が病むことがあります。
こういう、カラクリです。
さて、少し語り過ぎましたので、ここいらで口を閉じたいと思います。
あなたの命という名の時間を使って、最後まで読んでいただいたことに心から感謝します。
どうか、あなたのこころが、からだが、いのちが、すこしでも、楽になりますように。
✎_U