見出し画像

生きづらさ

生きづらい。
日々、生きづらいなあと思いながら生きている。

私の生きづらさの中には、これまでnoteに書いてきたように色々なものがあって、その中に“ADHDっぽい”というのがある。



なんかおかしい、と強く感じ始めたのは大学生の頃で、主に自動車学校やバイト先で苦労することになった。
気付くきっかけが、ネットで調べるところの、いかにも“大人のADHD”って感じだ。



これを読んでくださる方が想像しやすいように、具体的に書き出してみると、こんな感じです。

・来た道を帰れない。(帰ろうとすると、来た道が別世界のように見えます。空間把握が苦手なのかな。)
・具体的な指示がないと理解できない。(例えば「そこに立って」と言われたとして、どちらを向いて立つのか普通分かるところが、分からない。)
・お金の計算が苦手。(見えないものを理解することがとっても苦手。)
・タスクが複数あると混乱する。(優先順位が分からなくなるし、頭の中で情報が溢れてしまって、大混乱。要領がとっても悪くなります。)
・複数の指示があると、従えない。(指示されたことを一度紙に書き出して、整理するという工程を踏まないと、理解ができない。)
・視野が狭い。(これも空間把握かな。そこにあるものに気付かないことが多々。)

感覚としては、頭の中でシステムエラーが起こった感じ。



日々を過ごすのにあまりにも困ることが多かった私は、心療内科を受診してみることにした。
おかしいと感じたそれが一体なんなのか、ほぼほぼ分かりながらも、これと決定づけられたかったのだと思う。

が、診察と心理検査を受けた結果、ADHDではないという診断だった。



当時は、名前がついて欲しいという思いが強かった。

名前がついたら、薬で治療ができる。
そしてなにより、なんだかすっきりする気がした。
それは、この生きづらさは自分の努力不足のせいではないと証明される、安心感のようなものだった。
あくまで私の考えだけれど。



それから6年以上過ぎた今、生きづらいことに変わりはないけれど、それなりに自分で対処ができるようになった。
紙に書き出すとか、忘れそうなことはメモするとか、細かい指示を仰ぐとか、そういうこと。

考えてみれば、名前がついてもつかなくても、何かしら自分で対処しなくちゃいけない。
それでも今も少し、名前がついたなら良いのに、という気持ちがある。
名前がついたら、ああ、私の頭の中はそういう構造なんだねって、納得ができるから。

今は、名前はついていないけれど、私の頭の中ではバグのようなものが起こっているところが数箇所あって、それが小さな障害となって、情報がうまく処理しきれなかったり、物事を組み立てるのが難しかったりするんだと思うようにしている。
そう思わないと、とても心地良くは生きていられなかったから。



生きづらいけれど、生きづらいことに目を向けてばかりいては、ご機嫌でいられないからね。
時々、普段我慢していることたちが爆発して、なんでこんなに頑張らなきゃならないの!と怒れてしまうけれど。
時々なら良いことにしています。


文章にすると、自分が生きやすいように色々努力してるんだなって、実感する。
今日も書いて良かった。

いいなと思ったら応援しよう!