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探究者のための学校づくり前夜 #1

駒崎です。ラーンネット・エッジというマイクロスクール* の代表をしています。
10代の探究者のためのスクールで、2019年に設立しました。
スクールのnoteもあるのですが、それとは別に個人としての考えなどについてはこちらに書いていきたいと思います。

まずは、数回に分けて、私がラーンネットに関わるに至った経緯について書きます。私個人やラーンネット・エッジを少しでも知っていただくきっかけになれば幸いです。

私は美術系の大学を出てから約10年間、Web制作やデザインの会社でユーザーインターフェイス、ユーザーエクスペリエンス、サービスデザインというカタカナばかりの領域で、企画・情報設計・開発の仕事をしていました。
その仕事に就いた理由は、デジタルの世界を過ごしやすいものにしたいと考えたからでした。例えば、デパートの入口のドアに「ぐっと握って引け」と言わんばかりの立派な取っ手が付いているにも関わらず、近づいてみると「押す」だったりすることがあります。そのような直感的でなく不親切なインターフェイスがバーチャルの世界でも生まれてくるだろうと思い、それを少しでも解消し、快適な世の中にしたいと考えていました。

そんな風に、たいそうな理想を抱えて社会に出たのですが、いざ働き始めると、受動的で言われたことしかやらなかったり、仕事を薄く伸ばして働いている風に見せたり、簡単な仕事を複雑にして自分しかできない特別な仕事に仕立ててみたりといった、私が想像していた「社会」とは程遠い光景を目の当たりにし、ショックを受けます。特に就職にあたり、「自分の使命はなにか」「自分が社会に提供できるものは何か」などと悩み抜いた末に辿り着いた「社会」であっただけに落胆は大きかったのです。しかも、憧れだったデザイナーやエンジニアと呼ばれる人たちも、上司やクライアントの求める正解を追いかけるばかりで最終的な使い手を見ておらず、これでは私も謎の立派な取っ手を作り出す側になってしまうかも知れないと危機感を抱き始めます。

それでもまずはできることをやろうと悪戦苦闘していると、しばらくして、私はひとつのデザインに出会い、感動します。直感的にわかりやすく、論理的でしかも遊び心がある。「これは何だ?この違いは何だ?」と思ったときにふと頭をよぎったのは、尊敬する仲畑貴志というコピーライターの言葉でした。

『表現力の差は、他者の思いを想い、想い至る力の差』

「これだ!」と確信した私の中に、この「他者の思いを想い、想い至る力」は、いつどうやって身につくのか?それは後天的に獲得されるものなのか?どこかで削がれるものなのか?そんな問いが生まれます。
そして同時に、職場で見た「“サラリーマン化”した大人たちの姿」と「学校の教室」の光景が重なります。能動的な参加ではなく座って静かに聞いていることを求められ、自分の考えではなく先生や問題作成者の期待する答えが正解となる。「学校教育」に何かあるに違いないと思った私は教育の世界に足を踏み入れます。(つづく)

* マイクロスクール:明確な定義は無い。一時注目されたAltSchoolなど、少人数かつデジタル環境を用いて個別最適化を行い、協働学習も行っているスクールを指すことが多い。私がこの言葉を使うのは、フリースクールやオルタナティブスクールという言葉から想起されるものが私たちが目指している姿、現実の姿とも異なるからである。なお、兵庫県教育委員会からは「フリースクール等民間施設」に括られており、残念ながら"自称"の領域を出ていない。
参考記事:https://kotaenonai.org/blog/satolog/1379/

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