矢野宏の平和学習 01「大阪大空襲を知っていますか」
太平洋戦争末期、大阪は1944年12月から終戦前日の45年8月14日まで50回を超える空襲に見舞われた。うち、100機以上のB29爆撃機による攻撃を「大空襲」と言い、8回を数える。
犠牲者は、行方不明者を合わせて1万5000人以上、122万もの人々が家を失った。
最初の大阪大空襲は、1945年3月13日深夜から翌14日未明にかけての3時間半で、274機のB29が来襲。焼夷弾1773㌧、6万5000発余りが投下され、大阪市の中心部、当時の浪速区や西区、南区、大正区、東区、西成区、天王寺区などが火の海となり、一夜にして4000人が犠牲となった。
6月に入り、1日、7日、15日と繰り返され、大阪の街は廃墟となった。これで5大都市への無差別空襲は完了し、米軍は次の攻撃目標を中小都市に移した。同時に、大阪砲兵工廠などの軍需工場への攻撃を並行して行った。
7月10日の第6次大阪大空襲はその一環で、中小都市だった堺市が空爆されて焼け野原となり、1860人が犠牲になった。
7月24日の第7次大阪大空襲は住友金属桜島工場に2トン爆弾が初めて投下され、工場は壊滅。300人もの犠牲者を出した。その跡地は、現在のUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)だ。
最後の大阪大空襲は敗戦前日の8月14日。ターゲットは、空襲のたびに生き残ってきた大阪砲兵工廠。「東洋一の軍需工場」と言われ、最大で6万5000人が兵器を作っていた。
145機のB29が707㌧の爆弾を投下、工場は完膚なきまでに破壊された。
この空襲の最大の悲劇は、国鉄京橋駅(現JR京橋駅)での惨事だった。1発の1㌧爆弾が城東線ホームを突き破り、避難する乗客でごった返す片町線ホームでさく裂したのだ。駅舎は吹き飛び、石垣や柱、壁などが乗客を押しつぶした。死者は身元がわかっているだけで210人、実際は500人とも600人とも言われている。
その一人、吉冨玲子さんは当時13歳。2年前に父親と姉を亡くし、一家を支えていた兄に召集令状が届く。「8月15日までに姫路の連隊に入隊せよ」。14日、吉冨さんは母と一緒に兄を大阪まで見送りにいった途中で空襲に遭った。大きな石や柱の下敷きになって身動きできない。何度も気を失いかけたが、暗闇の中で「玲子、玲子」と呼ぶ母の声で意識を取り戻したという。だが、その声も聞こえなくなった。
その日の夕方に救出された吉冨さんは、近くの小学校の講堂に収容された。翌15日戦争が終わったことを告げる玉音放送の後、母と兄の死を知らされた。
「せめて1日早く戦争が終わっていたらと思うと悔しくてね……親を亡くした子供ほどみじめなものはありません。ただ、耐えるだけでした」
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