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学び直したいという欲求のありか

20才の時に、急に父が入院していた病院で息を引き取りました。当時私は京都の大学からきていて、49日も終わり、春休みも終わるから、帰らないといけないタイミングだったけれど、私はどうしても一人で京都にいたくなかった。父のことや家族のこと、喪失のことをひとりぼっちで、乗り越えながら周りのチャラチャラした大学生たちに合わせて適当に日々を過ごすことなんかしたくなかった。だから休学したいと母と姉に伝えたが、「休学して何するの?そんな風にしてても癒されないんだから、戻りなさい。勉強するのが学生の仕事であって、周りのお友達と付き合うことが仕事ではない。」と主に姉に諭されて、心がついて行かないまま、無理やり大学に戻りました。(姉としては、京都の私立大学に行かせてもらっただけでお金を使ってもらっているんだから、感謝しなさいよ、という思いがあったと思います。本人は地元の公立大に実家から通っていたので)

それからの京都での日々はどんよりしていて、生活は荒れて、心は荒れて、心の隙間は男性たちに埋めてもらっていました。ベッドというどこにもあるけれどどこにもないような場所で、誰にも見せないものを曝け出しているようでいて、実は何も曝け出せる訳がないような関係を続けていた。

当時の友人たちは、誰も親を亡くした私により添えるような聴く力を持ってる人はいなかったので、日常生活の中で傷ついた心を受け止めるような場所は、他になかったのだろうと思います。

私はあの時に戻って、ちゃんと自分に休学させてあげて、自分の世界の中にどっぷり浸かる時間を過ごさせてあげたい。その時にすごく興味があったのが、生と死を古の民たちがどのように捉えて来たのかという、ある意味のシャーマニズム、アニミズム、民俗学、文化人類学だったのです。だから、今でもそれはやり残したこととして、心に浮かんで来たのだと思います。そして、グリーフケア、思う存分、痛みを感じて、そしてそこに寄り添ってもらうということも、まだきっとやりたりてないのだろうと思います。

*2023.1.30追記

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