[10] 『記憶を拓く 信州 半島 世界』(信濃毎日新聞社編集局編、同社刊、2021年)を読む
象山に穿たれた地下壕は真夏でもひんやりしていた。掘りかけの壁は荒く、作業をしていた人たちの気配がまだ漂っているかのようだった。
松代大本営地下壕で働いていた朝鮮人労働者は強制連行されてきたという案内板に対し、強制ではないという抗議があってその記述が修正されたという報道があったとき、どうにか事実を突きとめられないものかと思った。
どんな人がどのように働いていたか、当時を知る人たちの間では共有されていた記憶かもしれない。けれども年月を経てその人たちが亡くなってしまうと記録も残っておらず、確認するすべがない。
地元の民間の人たちがかろうじて調査を行っている。そこに2018年、動員された朝鮮人労働者の名簿が見つかった。本人は亡くなっているが記者は家族を韓国に尋ねてわずかな記憶の糸を手繰り、その人生に寄り添った。
知りたかったことを調べてくれてありがとう。
そう思って本を手に取った。
慰安婦も徴用工も、国やいろんな団体が強制かそうじゃないかだけを争い、当事者が置き去りにされている。それぞれが主張したいことのために、利用しているだけのような気がしていた。
これまでの研究では強制的に連れてこられた朝鮮人労働者と強制連行ではない人が半々ぐらいだという。けれどそもそも植民者と被植民者という関係は対等ではない。植民地支配によって困窮した人が日本にやってきたとき、それは自由意思によるものといえるのだろうか。
日本の敗戦で植民地から解放されると、今度は朝鮮戦争が始まり南北が分裂する。
松代の地下壕に関わった朝鮮の人たちは、さらに自分たちの手の届かないパワーゲームに翻弄される。
満洲の記憶を辿って幾人もの体験談を読み開拓団の記録に目を通してきてわかったのは、渡満した開拓団員をひと括りにはできないということだ。一人一人に記憶があり感情がある。言葉に残したもの、残せなかったもの、残さなかったものがある。
松代の工事に携わった朝鮮人労働者も同じだと思った。それぞれの記憶に寄り添い続けてやっと少しだけ「朝鮮」や「満洲」に近づく。それを重ねてようやく「私」と「朝鮮」「満洲」を繋ぐものが見えてくる。
韓国が好き、という若い人たちの無邪気さを危ういと思っていた。
歴史を「知らない」ということは「なかったことにする」のと同じだ。好き、だけでは韓国と仲良くなれない。それに気がついて歴史理解に踏み込んでいこうとする学生の姿も本書は伝えている。
※長野市「松代象山地下壕のご案内」 https://www.city.nagano.nagano.jp/site/kanko-nagano/22100.html
※NPO法人松代大本営平和祈念館 http://matushiro.la.coocan.jp/