天幕御合体、諸藩一和
どうもです。
何となく始めてみた歴史探訪記事ですが、
気づけば5本目。
何度も言いますが、歴史は光を当てる角度によってまったく違う様相にも解釈にもなるので、
正しい、正しくないよりも、
少しでも自分と読んでいただいた人の考えるキッカケになればと思っています。
なので、
あまり完璧な内容を求めすぎずに、
ラフにやっていこうと思っていますので悪しからず。
てことで、
今回は近年少しずつ注目を集めている、
でもまだまだ知る人は少ない人を取り上げてみたいと思います!
それでは…
【本日のお言葉】
「天幕御合体、諸藩一和」
by 赤松小三郎
今日の主役にコレという名言はなかったのでちょっと強引ですが、
今回は幕末の歴史に埋もれた英雄・”赤松小三郎(あかまつこさぶろう)“について紐解いていきたいと思います。
幕末、いわゆる『明治維新』の時代ですよね。
『明治維新』と聞いて、皆さんどんなイメージをお持ちでしょうか?
江戸から明治へ。
侍文化から近代化(西欧化)へ。
日本が大きく変わるきっかけになった時代ですね。
登場人物で有名なのは、”坂本龍馬”、”西郷隆盛”、”新撰組”あたりが知名度高いですよね。
簡単に言えば、
江戸時代の幕府(徳川家)に不満を持っていた『薩摩&長州(萩)』の両藩が手を組み、
『戊辰戦争』などを経て”倒幕“を果たし、
明治の時代へと突入したことで、日本の”近代国家化”のキッカケとなった。
みたいな感じで習っているかと思いますが、
ここのところに本当に様々なことが語られているんですよねぇ。
もう様々な説が飛び交っていて、
何が本当で何が嘘(伝説)なのか分かりませんが、
一応事実に基づいたことを中心に紹介しつつ、
”赤松小三郎”について知っていただければと思います!
赤松小三郎の功績
まず、
この”赤松小三郎“が何をした人なのかを端的に記したいと思います。
▲赤松小三郎(Wikipediaより)
”赤松小三郎“は、
1867年に、前福井藩主であり“幕末四賢候”と呼ばれた“松平春嶽”、薩摩藩国父の”島津久光”の2人、
そして”徳川幕府“に対して、
『建白七策』と呼ばれる建白書(臣下から上官に対して意見を記した文書)を提出しています。
この『建白七策』の内容がすごかったんです。
江戸時代後期にして、既に近代的でした。
今となれば常識なことばかりかもしれませんが、
この当時にしては非常に画期的な意見でした。
まずは彼が建白した意見を簡単にまとめてみます。
***
一、
天皇支持者側と幕府支持者側が協力する事、各藩は仲良くする事で国が一つになる。
・まずは天皇の権限を強めて正しい政治をする。
・天皇に仕えて政治を行う大臣を、将軍/公家/各藩主/旗本のうちから学も道徳もある6人を選び、総理、財務、外交、国防、治安法務、税金の大臣とする。
・それ以外の高級公務員を身分の上下や貴賤に関わらず選出する。
・それとは別に議会を作り、上院と下院の2つに分ける。
・上院は公家/大名/旗本から30人、下院は身分や貴賤によらず全国から130人を”公平”に”選挙”で選ぶ。
◎人々の心が穏やかでひとつとなるような国律(今でいう憲法)を作ることを日本政治の基本とする。
一、人材教育のことを国の方針の基本とする。
・国中の人材を育てる為に大学、小学校を増やして国中の人民に文明を育むことを国を治める基礎とする。
一、国中の人民を平等に育て、人々を能力にあわせて十分に努力させる。
・今は遊んで暮らす人と、よく働く人が別れている為、全員平等に役に立つ職業につかせ、どんな職業にも平等に税金をかけ、国の財政の基盤とする。
一、これまでの金貨、銀貨をすべて改め、日本中の人口と物品と銭貨はどこで取り扱っても同じ価値にする。
・国内では共通のお金を使い、金貨/銀貨は外国と同じ交換比率にして、今後貿易する時に損害を受けないようにする。
一、海軍や陸軍の兵備は平時と乱世に分けて考え基準を算定する。
・軍隊は自衛の為に陸軍を2万8千人、海軍は3千人が適当と考える。
兵の数は少なくして、その分兵器を揃えて、熟練させることが大切である。
・普段から全ての男女に兵法を学ばせておき、世の中が乱れ危機が迫ってきたら、日本中の男女すべてが兵士として役立つように備えるべきである。
一、兵器、日用品、衣食などの製造所には初めは外国より取り寄せ、日本中に品物が不足のないようにする。
・製造所や工場では、まずは外国人を雇い、技術を学び、日本に職人を増やすことが必要である。
一、役に立つ人間を育て、馬及び鳥や獣のいろいろを養殖します。
・欧米人に比較して日本人は体格が劣るため肉食をしたり、羊皮など美しい服を着てセンスを磨いたりしたほうがいい。
***
以上のように具体的な新国家構想を提案しています。
面白いですね。
江戸時代は、
徳川の将軍家と、その将軍から領地を与えられた大名たちが、絶大な権力を背景に領民を支配した封建制度の時代であり、
憲法もなければ、議会もなければ、内閣もないし、選挙もなかったわけですし、
身分によって扱いが違って当たり前の時代なので、
教育を受けるのは武士がほとんどですし、
職業は生まれついた身分で決まることがほとんどです。
国防についても、侍文化ですから軍隊(特に海軍)なんてものが十分に組織されていない時代ですよね。
このように、ほとんどがその時代になかった新しい政策を、
「このままじゃ日本は危ない!どうにかしないといけない!」
という強い想いから、”下級武士“であった“赤松小三郎“が幕府にまで提言したというのはすごいことですね。
これらは近代化という名の”欧米化“とも言えますが、
少なくとも、議会政治、普通選挙、義務教育、法の下の平等(職業選択の自由)、自衛の軍隊など、
今の日本の憲法、法律と似ている部分がすごく多いですよね。
近代化が進歩かどうかは分かりませんが、
僕個人としては、義務教育や個人の尊重・平等は今でも賛成できる事柄ですし、
(義務教育の内容については別として)
民主主義による普通選挙も現状ではベターな方法だと思っています。
ちなみに、
日本に選挙制度が持ち込まれたのが、
彼が『建白七策』を出した23年後の1890年(明治23年)でしたが、
その時の選挙権は「直接国税15円以上納めている満25歳以上の男子」、被選挙権は「直接国税15円以上納めている満30歳以上の男子」でした。
さらに、
納税額によらない”普通選挙”となったのが大正時代の1925年、
女性にも選挙権が与えられ”平等選挙”となったのが戦後の1945年でした。
それを思うと、
”赤松小三郎”は約80年の時をもすっ飛ばして、
男女を分けず、身分(納税額)にもよらない“普通選挙“を提案していたわけで、
そのことからも相当未来人ですよね。
このように熱い魂と、豊富な知識、さらに先見の明まであった“赤松小三郎”の『建白七策』ですが、
これが受け入れられることはありませんでした。
なぜなら、
この『建白七策』を出した4ヶ月後、
“赤松小三郎”は暗殺されてしまうからです。
なぜ、暗殺されてしまったのか?
ここから、この“赤松小三郎”の悲運な運命を辿っていきたいと思います。
赤松小三郎の経歴
“赤松小三郎”は、1831年に信濃国(今の長野県上田市)の藩士・芦田家の息子として生まれました。(通称“芦田清次郎“)
1854年に”赤松家“の養子となり、
1861年から”赤松小三郎“を名乗っています。
そんな“赤松小三郎”は身分が低くとも幼少期より向学心高く、
数学・測量・天文・暦学・蘭学・医学と様々な学問を学んでいきます。
その後、“勝海舟”の門下生となり、その従者として『長崎海軍伝習所』に赴き、
航海術やオランダ式兵学なども学びました。
▲長崎海軍伝習所(Wikipediaより)
1864年には、江戸で英語や英国式兵学(当時の世界最強は英国=イギリスです。)を学び、
1865年には『英国歩兵練法』を翻訳し、
名を知られるようになります。
▲英国歩兵練法(上田市立博物館HPより)
(「気をつけ、前へならえ」などはこの時に翻訳されたものです!
僕らの日常に“赤松小三郎”の名残があったんですね。)
その豊富な知識を糧に、
1866年には、京都で家塾を開き、英国式兵学や物理学、航海術を、課外として議会政治などを教えました。
各地の藩士や、”新撰組“のメンバーなどが教えを乞うように集まりました。
そのうち、
薩摩藩からは特別に兵学教授への就任を請われ、
京都の薩摩藩邸において”中村半次郎(のちの桐野利秋)“や、”東郷平八郎“ら約800人に英国式兵学を教えます。
『建白書』を提出する1867年には、
会津藩の”山本覚馬”から依頼されて会津藩洋学校でも兵学を教えました。
このように立場や思想の違う藩士たちにも、分け隔てなく最新の知識や技術を教えていたということは、
この時代に置いて非常に珍しいエピソードですし、
『建白七策』での視野の広さ、人民平等を説いていることとも通じている”赤松小三郎“の一面を表しているなと思います。
しかし、その視野の広さ、顔の広さが悲劇を生んでしまいます。
赤松小三郎暗殺の理由
少し時代背景を振り返ってみると、
幕末(江戸時代後期)の日本は、
1639年から200年以上続いた『鎖国政策』に終わりを告げ、
1854年『日米和親条約』、1858年『日米修好通商条約』などで開国をしたのち、
経済的にも政治的にも大混乱となっていました。
外国を追い払えという“攘夷派”、
これからは進んでいる海外の文化を取り入れるべきだという“開国派”、
今の“幕府”なんてぶっ潰してしまえという“討幕派”、
“幕府”を補佐する“佐幕派”などなど。
様々な思想や立場の人々が、互いの主張を譲らず、日本としてまとまりを欠いていました。
(この辺を詳しく記すとまた面白いのですが、今回は割愛します。)
“赤松小三郎“自身は、
「天皇支持者側と幕府支持者側が協力する事、各藩は仲良くする事で国が一つになる。」
と言っているように、
朝廷(公家)と、幕府(武家)が結びつくべきという ”公武合体派“の中でも、
「譜代大名と幕臣に国政が独占されている今の体制を変革し、より広く人材や意見を取り入れる仕組みが必要」
と主張する“公議政体論”の立場でした。
要は、
日本の仕組みをガラリと変えるには、
身分によらず優秀な人材を集めて、
話し合い(議会制度)で変えていくべきということです。
当時緊迫していた海外の軍艦との戦争を避けるためには国内で戦争をしている場合でないという主張でした。
そこで、
”赤松小三郎“は、内戦を阻止するために“討幕派”の“薩摩藩”と”幕府“の和解を目指して、
”佐幕派“であった”会津藩“とも協力して『幕薩一和』の働きかけをしたりしていました。
しかし、
”薩摩藩“は理想(日本を良くしたい、変えたい)は同じでも、
武力で体制を変えることにこだわっていました。
そのため、
平和主義である“赤松小三郎”が邪魔となったのでしょう。
『建白七策』を提出した4ヶ月後、
“赤松小三郎”は自身の故郷“上田藩“に戻る道中に、
自分の元教え子である“薩摩藩”の“中村半次郎(のちの桐野利秋)”によって暗殺されてしまいます。
(“中村半次郎”の暗殺だと分かるのは1967年のこと!はじめは強盗による殺人だと報告されていました。)
▲中村半次郎(桐野利秋)
今では“中村半次郎”に暗殺指令を出したのは“西郷隆盛”だろうということが通説ではありますが、証拠はありません。
“薩摩藩”の内情が“幕府”や“上田藩“(佐幕派)に漏れることを恐れたからではないかなんて言われたりもしています。
そして、”赤松小三郎“暗殺から1ヶ月後、
『大政奉還』で一時は非武力で政権交代がされるかと思いきや、
様々な思惑が絡み合い、結局は、
1868年1月から『戊辰戦争』が起こり、国内で散々戦争をした後、
“薩長連合(=新政府軍)”が、“旧幕府軍”を撃ち破り、
政権を握るとともに、『明治維新』となったわけです。
▲戊辰戦争
新体制になったことが良いのか悪いのかは分かりません。
江戸時代にしても、明治時代にしても、
良い部分、悪い部分は同じようにあると思うので。
ただ、本当に戦争(内戦)をする必要はあったんでしょうか?
薩長が武力行使したかった理由
この問いについて考える時に必要な視点が、
この幕末の動乱期は、決して日本が勝手に行なっていたことではないと言うことです。
この時代は、
世界はヨーロッパに加え、アメリカも力を持ち始め、
欧米が各地に植民地を求める時代でもありました。
アメリカでは、
ちょうど幕末期の1861年に『南北戦争』が起こっています。
このアメリカの南部と北部で分かれて戦った戦争では、
下馬評を覆して北部が勝ちました。
実は、北部の勝利には日本が関係していました。
というのも、
1854年の『日米和親条約』の細則で金銀の両替が固定相場とされてしまいました。
これにより、
日本と諸外国との金銀交換比率がズレてしまい、
アメリカはそれを利用して、
大量の金を日本からアメリカに流出させることに成功していました。
▲両替による利益獲得(貨幣博物館HP)
その財源を用いて勝利した北部軍は、
さらに日本から金を引っ張ろうと、
南北戦争で余った武器をイギリスやフランスを通じて、
”討幕派“と”佐幕派“で争っている日本に売りつけていきました。
(だから、両軍で同じ装備で戦っていたという冗談のような逸話が残っています。)
ちなみに、
外国政府としては、日本が開国してくれた方が貿易ができるので、
フランス政府もイギリス政府もどちらかと言うと”幕府寄り“でした。
しかし、
イギリスには在日イギリス通訳官”アーネスト・サトウ“という人間がいました。
この人物は”外交官“として、親イギリスな侍を育て、
その侍に日本を統治させれば、イギリスは日本を利用できる。
という目論見(もくろみ)があり、
「日本の元首は将軍ではなく天皇であると説き、将軍が貿易を独占しているのは不当であり、諸藩は自由貿易を行う権利を持っている。」
という『英国策論』を展開し、
”薩摩藩“にも“長州藩“にも近づいていき、
外国の実力差を思い知らせると同時に、
薩長の志士たちをイギリス留学させるなどして、
エージェント(スパイ?)として育てていました。
さらに、
武器商人”トーマス・グラバー“も、
”薩摩藩“に武器を調達していきます。
”トーマス・グラバー“は長崎の商人で表向きは綿花製品などの輸出を行っていましたが、
裏の顔である武器商人として財を築いていました。
結局、
外交官、武器商人、外資銀行家など、
戦争をするほど儲かる人たちの思惑に乗せられ、
日本は内戦の準備を進めていたという可能性があります。
そんな中、
”長州藩“は過激派すぎて、日本国中を敵に回し、外国とも貿易が出来なくなっていました。
”薩摩藩“とも一時期関係が悪化していました。
そこに仲介を買って出たのが”坂本龍馬“です。
”坂本龍馬“は、日本初の商社『亀山社中』を設立していましたが、
前述の武器商人”トーマス・グラバー“と手を組み、
”薩摩藩”名義で武器を買わせ、それを”長州藩”に横流しするという斡旋をします。
先ほども言ったように、これで内戦が起これば、
武器商人も外国資本家たちもさらに儲かるという算段です。
こうして、
幕府を討ち取るだけの武力を身につけた”薩摩藩“と”長州藩“は、
いよいよ戦争を起こしにかかります。
”薩摩藩“も、”長州藩“も、長年積もっていた”徳川幕府”への恨みは、
ただ”徳川幕府“を政権から退けるだけでは納得できず、
どうしても武力で討ち取りたかったのだと言うことです。
なんだか負の連鎖ですね。
坂本龍馬と赤松小三郎の共通点
ちなみに、
”薩長同盟“の立役者として知られている”坂本龍馬“ですが、
実際は“トーマス・グラバー”と“薩長藩”のつなぎ役に過ぎなかったという側面もあったみたいです。
武器を買って、戦争をしたい”薩摩藩“と”長州藩“、
(なぜ武器を買う費用があったかにもまた面白いエピソードがあります。)
戦争させることで武器を売りまくりたい”トーマス・グラバー“。
(”グラバー“は幕府側からの受注も受けていました。まさに鬼の所業…)
その間に立っていた”坂本龍馬“は、
“赤松小三郎”の『建白七策』が出された1ヶ月後に、
“土佐藩”の参政“後藤象二郎”に『船中八策』というものを提案しています。
これは“大政奉還“や“議会政治”などの考えが盛り込まれているのですが、
使用されている言葉も含め、“赤松小三郎”の『建白七策』と類似点が多く、
“坂本龍馬”は『建白七策』を参考に『船中八策』を作ったものだと言われています。
(ちなみに『船中八策』は資料は残っておらず、創作話である可能性も否定できません。)
ちなみに、
”坂本龍馬“も”赤松小三郎“と同じで、”勝海舟“の門下生でした。
門下生であった時期が前後しているため、2人に直接の面識は無かったようですが、
海外思想に早くから触れていた点では共通しているのかもしれませんね。
そんな”坂本龍馬“の『船中八策』は、
日本に内戦を勃発させて儲けようとしていた武器商人“トーマス・グラバー”からしたら裏切り行為でした。
大政奉還してしまえば、内戦阻止に繋がってしまうので。
その因果がどう関わっているかは不明ですが、
“坂本龍馬”自身も、この『船中八策』を提案したのちに、
何者かに暗殺されています。
こうしてみると、
“赤松小三郎”の後を追うような出来事ばかりですね。
それにしても、
もう何がなんでも戦争させたかったんですね。
戦争ビジネスって、恐ろしいですね。
そんな好戦的な”薩長連合“による新政府軍が実権を握った明治時代以降は、
260年に渡り泰平の世を保っていた江戸時代と打って変わって、
1945年の第二次世界大戦が終わるまでのわずか80年の間に日本は国内外で戦争をし続けます。
これは時代のせいなのか?
政権のせいなのか?
外国主導?商人主導?
また考えてみたいものですね。
最後に
そんなわけで、
“赤松小三郎”から少し話が逸れてしまいましたが、
“赤松小三郎”のように現代の価値観でみると、
真っ当なことを主張していた人が暗殺され、
また歴史に埋もれてしまっていることを紐解いてみると、
歴史とは作られた側面があるなぁと思わざるを得ないですね。
果たして“赤松小三郎”は自分が暗殺される可能性については考えていなかったのだろうか?
僕は、人民平等の精神は持ちつつも、ただのお人好しではなく、
ある程度のことは覚悟した上で行動していたしたたかな人間だったんじゃないかなぁと思ったりしていますが。
それだけに無念だったかもしれませんね。
そして、
“赤松小三郎"が身分制度の強い時代に、
”人民平等“の提案ができたのも、
彼が”下級武士“であり、身分を理由に理不尽な扱いを受けてきたからだと思います。
やはり、差別問題では被差別側から声を挙げていくことが大切なことなのかなと思います。
(声の挙げ方も大事だと思いますが。)
そして、
何かを変える時に、それが不平等を平等にするものだとしても、
その恩恵を受ける人もいれば、
それにより損する人がいることも自明の理ですよね。
それまでの利益が不等な側面があるとはいえ、
今まで手にしていたものを手離すということが人間にとってどれだけ大変なことなのか…
人間とはつくづく弱い強欲な生き物だなと思います。
なんでもかんでも、平等がいいとは思わないけれど、
差別は良くないとも思います。
答えの難しい世界ですね。
ということで、
最後にもうひとつこぼれ話。
”赤松小三郎“の『建白七策』に大きな影響を与えたのではないかと言われているのが、
実は”福沢諭吉“の『西洋事情』です。
▲西洋事情/福沢諭吉
1860年、
”勝海舟“の門下生だった“赤松小三郎”は、
その時に日本で初めて太平洋を横断することとなる『咸臨丸(かんりんまる)』という船に乗船を希望しますが、
成績よりも身分を優先され、乗船が叶いませんでした。
その『咸臨丸』に乗っていったうちの1人に“福沢諭吉”が含まれており、
彼はアメリカ→ヨーロッパと各国を周り、
現地で西洋文化を吸収し、
『西洋事情』を書いたと言われています。
このことが、”赤松小三郎“や”坂本龍馬“などの議会政治思想の基になっているとも考えられるそうです。
どんどん繋がっていくものですね。
新しい知識を貪欲に吸収していく姿勢はいつの世も大切ですね!
そして、
“赤松小三郎”のように正しいと思ったことを、
キチンと真摯に相手に伝えようとする姿勢も学びたいところですね。
幕府を敵視することなく、同じ日本という共同体と認識していたからでしょうが。
今日は、
歴史に埋もれた幕末の英雄“赤松小三郎”を紹介してみました。
だいぶ端折りましたが、だいぶ長くなりました笑最後まで読んでいただいた方、長々とお付き合いありがとうございました!!
【参考図書&HP】
『赤松小三郎ともうひとつの明治維新』(関良基・著)
『上田市マルチメディア情報センターHP 赤松小三郎』https://museum.umic.jp/akamatsu/
『明治維新という名の洗脳』(苫米地英人・著)
『西洋事情の衝撃と日本人』(平山洋・著)
『明治維新という過ち』(原田伊織・著)