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【映画感想】『陪審員2番』で突きつけられる「正義」と「正義感」の違い
★★★★
さすがクリント・イーストウッドですね、と唸ってしまうほどの秀作。ただひたすらに“人間”を見つめ、悩み考え、描き続けてきた94歳のイーストウッドは、本作でもまた徹底的に“人間”の深みへと潜っていこうとしている。
突きつけられるのは「あなたの正義とは?」という問いかけではないか。そしてその問いは、2つの意味で私たちに突き刺さる。「正義」と「正義感」という曖昧かつ絶対に異なる概念となって。
あらすじ
ジャスティン・ケンプは、身重の妻と慎ましく暮らすタウン誌の記者。ある日、彼のもとに陪審員召喚状が届く。担当するのは恋人をケンカの末に殺した男の裁判。容疑に疑いの余地はなく、数時間で評決に至る簡単な審理だと思われたが…。
作品情報
『陪審員2番』(原題: Juror #2)
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ジョナサン・エイブラムス
出演:ニコラス・ホルト, トニ・コレット, J・K・シモンズ ほか
上映時間:114分
日本公開:未公開(2024年12月20日配信開始@U-NEXT)
以下、ネタバレを含みます。
▶︎どんな事件なのか
U-NEXT先生のあらすじがあまりにあらすじすぎるので、もう少しだけ詳しく物語を振り返っておこう。
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U-NEXT(YouTube)より
主人公のジャスティン・ケンプは妻の妊娠中に陪審員召喚状を受け取り、出廷。前回流産してしまった妻を“ハイリスク妊娠中”だとしながらも、検事と弁護士の質疑応答をかいくぐり、彼はタイトルにもある「陪審員2番」として選出される。
彼が担当する事件の概要はこうだ。屈強な肉体をもつ男性・サイスが交際中の女性とバーで喧嘩、雷雨のなか店外でも口論を続け、女性は「歩いて帰る」と立ち去った。女性を追って闇の中へと消えていくサイスの姿は人々に目撃され、カメラにもおさめられている。
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U-NEXT(YouTube)より
翌朝、サイスの彼女が田舎道にかかる橋の下で遺体となって発見される。彼女の身体には殴られたような跡があり、犯行時刻と見られる夜23時ごろには男性が車を止めて降り、橋の下を覗くような姿を目撃されていることから、交際相手であったサイスが逮捕され、殺害容疑で立件された。
有罪を主張する検察の言い分としては、彼女を追ったサイスは車で追いつき、その場で殺害。橋の下へと遺体を遺棄したというものだった。担当の検事は、次期検事長を期待される女性検事で、この事件の解決(=有罪)に自身のキャリアがかかっていた。
しかしサイスは犯行を否認。女性を追っていったのは認めたものの、車に乗るや否や改心し大人しく自宅へ戻ったと主張し、完全無罪の一点張りだ。弁護側は、凶器が見つかっていないこと、サイスが司法取引に応じなかったこと、目撃者の証言が個人を特定できるものではないこと、などを理由に陪審員を説得しようと試みる。
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U-NEXT(YouTube)より
さて。そんな“恋人殺人”のあらましを聞いていくなかで、表情を曇らせていく人物がいる。それが今回の主人公“陪審員2番”である主人公だ。詳細は後述するけれど、おそらくイーストウッドはかなり積極的な意図をもってタイトルを「陪審員2番」としているので、このレビューでは主人公をケンプと役名ではなく、そのまま主人公と表記していく。
▶︎主人公にとって、どんな事件なのか
上記の「どんな事件なのか」は、あくまでも客観的な、いや正確には裁判時点で検事・弁護士・裁判官・陪審員に提示されている「どんな事件なのか」ということにすぎない。この映画にはもう1つ、「主人公にとって、どんな事件なのか」という視点が入る。つまり主観的な、いや正確には裁判時点で検事・弁護士・裁判官・(他の)陪審員に提示されていない「どんな事件なのか」である。
事件のあった10月25日。主人公は妻の流産を嘆き(この日が本来の出産予定日だった)、夜にひとりバーへと立ち寄っていた。悲しみや怒りが鎮まるまで店内で過ごした主人公は、ようやく自分の車に乗り込み帰路につく。その道すがら、妻からの「大丈夫?」というチャットが届き、目を奪われる。そのときだった。
ドン。
主人公の車は“なにか”にぶつかった。
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U-NEXT(YouTube)より
慌てた主人公が車を降りて確認すると、ヘッドライトが壊れているので、たしかに事故は起こしたようだった。しかし周囲を見渡すが対象物は見当たらない。橋の下を覗くが、雷雨のなか、闇夜のなか、底は暗く見えない。顔を上げると、そこには「鹿に注意」の看板が。主人公は「鹿にぶつかったのだろう」と思い、車に戻り、家へと帰る。
ハッと気がつくと、そこは裁判中の法廷だった。
主人公の脳裏にある恐ろしい考えが浮かぶ。
自分が被害女性を轢いてしまったのではないか。
この事件の真犯人は、自分自身なのではないか。
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U-NEXT(YouTube)より
こうして『陪審員2番』の物語が始まった。
自分が真犯人だと疑い、ほぼ確信している主人公。
彼は裁判でどう立ち振る舞うべきなのか。
正解のない“逡巡”と“葛藤”の物語が。
▶︎衝突する「わたしの正義感」
裁判が陪審員たちの審議へと進むと、別室に集められた彼ら彼女たち10人は、ほとんど異口同音に「有罪だ」と主張する。「絶対に彼が殺した」「状況的に符合する」「間違いない」と、9名の陪審員は「有罪」と断言。残る主人公が「有罪」と主張すれば審議は終わり、被告人サイスは有罪として殺人の実刑判決を受け、代わりに主人公の罪(の可能性)は見過ごされる。
僕は今回の脚本で最も素晴らしいと唸ったのはこのシーンだった。しかも恥ずかしいことにその素晴らしさに気がついたのは観終わったあと。初見ではどちらかというとイライラするシーンだったんだけど、蓋を開けてみれば、きっとこのシーンに1つの真髄が描かれているように思われた。
最後に意見を求められた主人公は、あろうことか「もう少し議論しよう」と審議の引き伸ばしを主張する。「充分な議論が尽くされていない」と自ら事件を掘り返すことを提案し、本当に文字通りの墓穴を掘っていく。たったひと言「有罪だ」と言えば、自らの罪が明るみに出る可能性すらなくなり、出産を前に不安を抱く妻のもとにすぐさま帰ることができ、間違いなく平穏な人生を送ることができるのに。
では、どうして主人公は「有罪だ」と言えなかったのか。
きっとそれこそが「正義感」なのだ。
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U-NEXT(YouTube)より
主人公はサイスが犯人ではない可能性に気がついている。というか、劇中後半の描写から言えば、ほとんど間違いなく自分が犯人であるという確信がある。つまり、ここで「有罪だ」と発言することは嘘になる。自分の嘘で、自分の罪をサイスに着せることになる。きっとそのことを主人公の「正義感」は許せなかったのだろう。
とは言うものの、本当のことを——自分が轢いてしまったかもしれないと——正直に話すことはできない。実は主人公はかつて飲酒運転で交通事故を起こした過去があり、今回の件を白状すれば、ほぼ間違いなく危険運転致死で実刑をくらい下手したら終身刑になる。主人公は自分の身を守りつつ、サイスを虚偽の実刑判決からは守らなければいけない。そういう「正義感」に身をやつす。
主人公の提案を表面的にであれ採択した陪審員団は議論を開始するが、次から次へとサイスが「有罪」と断定することを難しくする証拠や可能性が浮上してくる。それはそうだ。主人公が目撃しているとおり、サイスは証言通りに彼女を追わずに引き返しているのだから。こうして観客は「おそらくサイスは無罪で、主人公が有罪なんだな」とわかってくる。
いくつかの評論や感想で、「主人公が本当に罪を犯したかわからないのが魅力」という意見を見かけた。きっとそれはそうなんだろうけど、おそらくほぼ間違いなく「サイスは無罪」であるとは思う。僕の意見としては、イーストウッドもここは事実として提示している気がする。そのうえで、やはり「正義」と「正義感」を問おうとしているように思えるからだ。
それは、上記のように客観的に「疑わしきは罰せず」的な議論に照らしていうと「サイスは有罪だ」と断定できないような段階になってもなお、陪審員の意見は割れて、6名もの陪審員が「有罪だ」と投票をするシーンに表現されていると思う。
「サイスは麻薬組織の一員だったから鉄槌を下すべきだ」という男。「女性をビッチだという男は有罪だ」と考える女。「娘の被害者が可哀想だ」と同情する男。
それぞれの「正義感」がそれぞれの倫理と哲学のなかで“正しく”働いて、それぞれの判断に至っている。彼ら彼女たちに疑いはない。たとえそれが証拠を無視し、仮説とまったく関係のない意見だったとしても、それこそが、彼ら彼女たちにとっての「正義」なのだから。
ここに『陪審員2号』で「正義感」と「正義」の邂逅がある。裁判の審議を下すという局面に至ってもなお、陪審員たちは、証拠という事実(レントゲン写真など)や議論の上での仮説という客観的な可能性を無視した「正義感」に基づいて、本来であれば「正義の行使」となるべく判決を下す。
彼ら彼女にとっては「正義」というものはイコールで自身の「正義感」であり、それに疑いはない。だからこそ、「彼は悪人だから絶対に有罪にする」という主張まで飛び出す始末。目隠しをした女神の象徴は完全に忘れ去られ、陪審員たちは自分たちの「正義感」というフィルターを通してでしか事件や犯人を見ることができないのだ。
そして結局それは主人公も同じだ。というかむしろ最悪だ。当初は「自分の嘘でサイスを無実の罪で有罪にすることはできない」という「正義感」に従い、陪審員に審議を促して無実へと持っていこうとしていた主人公だが、次第に捜査の手が自分に及ぶ可能性に気がつき、知人である弁護士から「全会一致で判決を出すしかない」と助言されると、すぐさま手のひら返しで「有罪」の判決を下してしまう。
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U-NEXT(YouTube)より
こうしてサイスの裁判は幕を閉じる。おそらく、いやほぼ確実に無実であったはずのサイスは、過去の経歴もあわせて終身刑の実刑判決を受ける。サイスの未来は奪われた。恋人の命とともに。それは、事件を隠蔽し、嘘だと知りながら有罪の判決を下し、それでもなお最愛の妻と待ち望んだ子供と幸せな家庭を築こうとする主人公とは、あまりに対比的な結末だった。
▶︎「正義」への祈り
この物語にはもう1人主人公がいる。それはサイロを有罪にすべく戦う女性検事だ。彼女は次期検事長候補としての将来をもかけてこの裁判に挑んでおり、なんとしてもサイロを有罪にしなくてはならなかった。おそらく彼女なりの「正義感」をもってサイロを犯人だと確信し、裁判でも疑うことなく有罪を主張していた。そう、途中までは。
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U-NEXT(YouTube)より
裁判が進み陪審員の評決を待つあいだ、彼女自身もまた「サイロが有罪だ」ということに疑いを持ち始めてしまう。ひき逃げ事故の可能性を否定できなくなり、面会時にサイロが語りかけた言葉のなかに「真実」を見つけてしまったような表情を見せる。きっとその瞬間に、彼女のなかの「正義感」が「正義」へと揺らぐ。
女性を守るために暴力的な男を裁くという正義感。
裁判に勝つことで女性検事長となり社会を正しく導くという正義感。
しかし彼女の頭上で目隠しをした女神が天秤を揺らす。
「正義感」と「正義」を天秤にかけて。
揺らぐ彼女はとうとう決めきれずに結審の日を迎えてしまう。サイロに下された判決は上述のとおり「終身刑」であった。社会的に見れば「正義」が下されたと映るはず。でもそれが「偽りの正義」だと彼女は知っている。それが「社会の正義感」でしかないと彼女は知っている。
その瞬間、彼女の視界が一人の男の姿を捉える。
「正義感」を司どる主人公、陪審員2番だ。
彼をかばわず、“彼は変わらない”と言ってしまった。僕が一生背負う罪だ。
陪審員2番はこの「正義感」にとらわれて、あろうことか、自らの嘘をもってサイロが有罪になる瞬間を目撃しようと裁判所に足を運んでいたのだった。決して自分が犯人の可能性があるとは名乗らない。サイロが人生を失うことを止めることもしない。でも、自分の「正義感」を守るために、判決の瞬間には立ち会おうと思う。
本当にイーストウッドという人は…。
ここまで人間を無慈悲かつ冷徹に批判して描けるから残酷だ。
そして陪審員2番は検事長に見つかってしまう。
「正義感」を振りかざし出しゃばった愚かな男の結末だった。
検事長は追加捜査の過程から陪審員2番が事件に関係していると勘付き、この遭遇をもって確信をする。話しかけられた陪審員2番もまた、その会話内容から検事長が自らの罪に気がついていると悟る。そこでこの会話が生まれる。
陪審員2番「彼は家族を、あなたは州民を守る」
検事長「正義はどうなるの?」
陪審員2番「真実が正義とは限らない」
検事長「本当にそう思う?」
陪審員2番「この件を追えば、あなたはマスコミの餌食だ。マスコミの対応をしている間に誰かに職を奪われ悪党が街に放たれる。善人とその家族は人生を失う。それが正義ですか?」
その言葉を最後に陪審員2番は立ち去っていく。2人を背後から捉えたそのカットには明確に天秤を掲げる女神がうつりこみ、続く1人取り残された検事長を俯瞰で捉えるカットでも女神は彼女の頭上で微動だにせず天秤を掲げ続ける。
イーストウッドらしい堅実なモンタージュ。
イーストウッドらしい力強いメッセージ。
陪審員2番は己の「正義感」を拠り所にして、検事長の「正義感」へと問いかけた。
「真実が正義とは限らない」と。
しかし検事長はその問いかけに答えない。
「真実こそが正義だ」と。
物語の最後、家族とくつろぐ陪審員2番の自宅のチャイムが鳴った。
扉を開ける陪審員2番。
そこには検事長が立っていた。
「正義感」と「正義」は違う。
「真実こそが正義」だ。
イーストウッドがこの映画で語りかけ問いかけたことはあまりに多い。
日本でも昨今のSNSなんかを見ると、真偽なんて皆目無視して「正義感」を振りかざす人のいかに多いことか。もはや「真実」や「事実」などという言葉は意味がないものになってしまったと思わざるを得ない瞬間だってある。「正義」は失われてしまったと思う瞬間が。いわんやアメリカをや、なのだろう。
だからこそきっと、イーストウッドはこの映画のタイトルに『陪審員2番』を選んだのではないか。主人公は、たしかに作中ではジャスティン・ケンプという名前を持っていたけれど、それは誰にでもあてはまる可能性のある物語。「陪審員」というのは、国民であれば誰でもランダムに選ばれる可能性のある制度のはずだ。つまり、「陪審員2番」には文字通りの意味で、誰でもがなりうるのだ。と。
▶︎しかし本当に「正義」なのか
これまで書いたとおり、僕個人の感想では、この映画は最終的に「正義」を司どる検事長が「正義感」を司どる陪審員2番に鉄槌を下すという結末を迎えていると思われる。そこにはイーストウッドの祈りが込められていて、アメリカの、あるいは世界全体の現状への憂慮を感じずにはいられない。
しかし、ここで現代を生きる私たちには検事長が「正義」を司どるという部分に疑問を感じずにはいられない。それはきっとイーストウッドだって感じていることだろう。日米問わず、本当に政府は正しい「正義」に基づいているのか、裁判や公権力は「正義」を執行しているのだろうか。疑いを挟まずに首肯することは難しいだろう。
きっとだからこそ、上記に引用した会話で、イーストウッドは「真実こそが正義だ」と定義している。世の中で「正義」とされているあらゆるものも、「真実」以外は「正義」ではない、と。
そのうえで、本当にあのエンディングなのだろうかと感じてしまう。個人的な見え方としては、「正義」を正しく振りかざそうとする“強い”検事長が、「正義感」を誤って振りかざしてきた”弱い”陪審員2番を懲らしめるという図式に見えた。つまり勝敗が決したような印象か。
でも本当にそうだろうか。
もちろん祈りとしてはそうだ。
「真実=正義」が勝ってほしい。そうあるべきだと願う。
でも本当にそうなるだろうか。
この映画ではその「望まない結末」の余白が残されていないような気がして、そこだけが個人的には残念だった。99%正しいエンディングであっても、1%は間違ったエンディングに導かれる可能性があるのではないか。そう想像できる余白にこそ、「正義」の説得力が自然発生的に芽吹くよすががあるような気がしたのは、僕だけだろうか。
▶︎『落下の解剖学』との類似
多くの方がレビューで指摘しているように、本作『陪審員2番』は、裁判ものである点も含めて、昨年公開されたカンヌ受賞作『落下の解剖学』と同じ趣を感じた。同作については僕もレビューを書いており、そのときの視点は「真実」と「事実」の違いであり、今回の「正義」と「正義感」の違いにも通づるものがあるのではないかと思う。
ここまで長文・乱筆にお付き合いいただいた皆さん、本当にありがとうございました。今年も素晴らしき映画人生を!