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「不便」は楽しかった


宝箱を持っている。正確にいえば、持っていることを思い出した。

表面に花柄がぷくっと浮き出た小さなクッキー缶で、幼い頃から思い出を自分なりに選んでみては仕舞っていた。部屋の模様替えをするたびにあちらこちらへと移動させていたためか、端には少しへこみがある。

そういえば最後に開けたのはもうずいぶんと前で、中身の記憶がすっかりない。数日前に突然ふと気付き、クローゼットから取り出して、蓋を開けてみた。

そして「あれ」を見つけた瞬間、頭の中がなにかにぐっと掴まれ、過去に引き戻されるのを感じた。知らない人はいないはず、と私が信じてやまない「あれ」である。


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私たちの青春「SPEED」のメモリアル写真集『RUNS,Our Graduation』に付属されていた、革製オリジナルブレスレットだ。

1996~2000年を駆け抜けたダンス&ボーカルユニット、SPEEDが大好きだった。「2000年3月31日をもって電撃解散」とのニュースが目に飛び込んだとき、当時小学生だった私は、制服を着たままテレビの前からしばらく動けなかった。

直後に「メモリアル写真集が発売される」と知って、貯めていたおこづかいで絶対に買うんだと決めた。


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宝箱に眠っていたそれは、透明なフィルムに入ったままだった。当時、なにか触れてはいけないような尊いものを手に入れた気がして、取り出せなかった。


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宝物が「MADE IN ITALY」だったとは、当時の私も気付いていなかったはずだ。しなやかな革に深く刻まれた「2000」の数字を見て、「もう10年以上前になる」という事実を突きつけられる。思えばこの十数年で、世の中はすっかり便利になった。

十数年前、小学校の教室では「SPEED派」と「浜崎あゆみ派」がしずかに熱く戦闘を繰り広げていた。SPEED派が教室の片隅で楽曲のダンスを練習するかたわら、「あゆ派」は、カバンに備えたふわふわのしっぽキーホルダーをさりげなくちらつかせる。

そんな混沌とした空気でも「安室奈美恵派なので」ときっぱり答える子には、誰もが心の中で会釈をしたはずだ。毎月愉快だと思うマンガや豪華な付録を披露し合う「ちゃお派」と「りぼん派」のなかで、堂々と「自分はなかよし派」と答える子が一目置かれる、それと同じである。

十数年経ったいま、マンガや本はアプリや電子書籍で読める習慣がすっかり浸透した。

風邪を引いて若干大袈裟にふるまい学校を休んだ日、家で教育テレビを観ている最中は、胸をじわりと浅くえぐられるような背徳感があった。「えいごであそぼ」「ハッチポッチステーション」付近ではまだまだ元気なのだが、「ガンコちゃん」「さわやか3組」のあたりで急激にずしんと来る。

そのうえ、近所の同級生がやや遠回りして宿題やおたよりを届けてくれるものだから申し訳なくなり、夕方には「本当は行けたのではないだろうか」と自問自答しながら、忍たま乱太郎を観る。

ひりっとした罪悪感を持参しながら翌日に登校すると、友人が「Dear みずき©」と書いた手紙をこっそりくれるし、内容は「学校休んで心配だった→。H/K、昨日国語で先生にすごく②叱られちゃったょ」なのだ。

十数年経ち、学校でもデジタル化が急速に進んで、大切な連絡事項や写真などがメールで限定配信されるようになった。学校を休んだ友人の様子は、翌日の手紙にしたためなくても、その日のうちにSNSを通じてすぐに知れる。


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文通の時期を越えて携帯電話を持つ年頃になれば、「折りたたみ派」vs「ストレート派」のはじまりだった。件名の「Re:Re:Re:」を消す消さない問題が入り乱れるなか、「自分はウィルコムも持っている」とほんのり自慢を披露してくれる人まで現れた。

いずれにしても電池パックの裏には仲仔とのプリクラを貼るし、着信ランプの色は個別で変えて、待ち遠しいメールにはセンター問い合わせをするのだ。

よく、チェーンメールを私の番で止めてしまっていた。「これを見た人は10人に転送しないと呪われる」のメールを止めた翌日、給食で冷凍みかんが一人分足りず、クラスメイトから「呪いでは...?」と そこはかとなくお咎めを受けた。

それからすぐに「これを見た人は10人に回さないと今夜の夢に死神が出ます」といった身の毛もよだつチェーンメールが届いたので、「これは大変...」と思いながら、そっと止めた。死神は夢に出なかった。

十数年経ったいま、折りたたまないがストレートとも表現しない「スマートフォン」が生活に馴染んでいる。チェーンメール阻止の犯人だと知られることにハラハラするどころか、メッセージを読んだ地点で相手には「既読」が伝わる時代だ。

テキストでのやりとりを飛び越えて、テレビ電話やリモートワークも定着している。つい先日、打ち上げ花火までオンラインで楽しめることを知った。


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仕事もコミュニケーションも、デジタル化やオンライン化が急速に進んでいる。それはとても便利で、効率的で、未来への期待度も高い。

ただ、「不便」だったかもしれないあの頃のコミュニケーションは、流行りの記号を混ぜて書いた文章や電波の不安定さに、さまざまな感情が乗っているようで楽しかった。

そして、いま思い返してみて「不便だったかもしれない」と感じる十数年前のコミュニケーションは、さらにそれ以前と比較すると十分発展した結果だったはずだ。そう考えると、いまの時代に存在する便利さも、数年後、十数年後にはさらに研ぎ澄まされていくのかもしれない。

でもできれば、ペンを手に取って気持ちを文字に込める「手紙」の習慣だけは、今後も残ってほしい。十数年を経て、仕事で毎日タイピングを繰り返している自分が強くそう思っていることさえ、ちょっと面白いなんて思う。 
 
 
 

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