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転回と夢想

いずれ誰しもが蝕まれる、あの精神的なカビを患ってから9年になる。

私の周りではいくらかの人が黙りこくり、いくらかの人が競争の海原へ漕ぎ出し、いくらかの人が私のもとから離れていった。

私は12歳〜16歳の時と打って変わって、今は厭世主義者ではない。
ペシミズムの青い暖かさに恍惚している自分は見えないところに消え去ってしまった。
どうして厭世主義者ではなくなったのだろう?

9年間で現実世界に対する嫌悪感が消えたわけではない。むしろもっと世界は芳しくない方向に進んでいて、私たちZ世代の多くは、若年期をネイティヴ消費社会のSNSという虚像空間で生活した代償を、中年あたりになったらせっせと払わなきゃならないのだろう。

物事はどんどん悪くなっていって、世界に希望はあまりない。
音楽も文学も、資本主義の商業潮流に流されて、良いものは次々と埋れ、心が貧しく一時の快楽だけを求めて屍人化し、もはや愛も信仰も、仄かな光すら放たなくなった。
今はトルストイが生きていた19世紀じゃない。
21世紀なのだ。

私たちは21世紀的人間として、永遠の空疎な消費空間の中で…夢心地のまま…
希望もなく、人類への恨みだけを抱えて皆と同じように死んでいくのだ!

若い人たちに教えてやるべきことは一つ。
生に期待すべきものは何ひとつとしてない。少々譲ってもほとんど何ひとつない、ということに尽きる。

『生誕の災厄』エミール・シオラン

しかしこれは、考えてみると
いわば意味ベースの人生の話である。
「生きている意味」とよくいうように、人間は意味(結果)を支柱に進行形の人生を捉えようとする。
しかし意味(結果)とは本来、回顧的なものであり、現在進行的に湧いている噴水のような人生を意味づけするというのは、つまり死後にしか不可能な行為である。

さらにカフカを持ち出せば、彼の人生の結果は逝去直後は決して高くないと言っても過言でないだろう。
しかし我々は彼が人類史上最高の作家である事を知っている。人生の結果とは死後も思わぬ隆盛を見せることもあり、その意味でまったく我々には測定不能なのである。

現在、我々が思い描く人生の虚無とは
これまでの絶望的な人類の過去を回顧して、統計的に分析してみると、その延長線上に仮置した未来が絶望的であるから、総括して人生は虚無だと思い込んでいるのである。

世界はラプラスの悪魔をも超える偶然性に支配されており、采配によっては明日全ての原子が分子結合を崩壊させる可能性すらあり、その場合には我々の明日は塵である。
そもそも未来というのは存在するだろうと我々が期待してる仮象に過ぎないのである。

断っておくと、私は夢想家気質なのだ。
無謀で、幼稚で、後先を考えずにあれこれ空想して、痛い目をたくさん見てきた。
幼稚園の頃に、将来の夢を書くとき、みんなお医者さんだのケーキ屋さんだの消防士だのと書いているとき、私は「全部」と書いた。

勿論これは幼児性万能感というよくある幼児の性質ではあるが、さらに私の問題であることには、私がいまだ垢まみれの万能感に取り憑かれていることだった。

もし世界に本当に希望が無いならば
私が一欠片でも作ればいいのではないか?

宝くじの一等を何連続も当選するような細い可能性だとしても、0でないのなら私は挑戦してみたい。

本来はもっと大勢の人間が夢想し、各人に可能な事を努力していただけるのがありがたい。

私は正直にいって、様々な才能に乏しいのだ。

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