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「ルックバック」に描かれていないもの

「ルックバック」(押山清高監督)

主人公は小学校の頃から学級新聞に4コマ漫画を描いていた少女・藤野。
彼女は同じく学級新聞にマンガを描いていた不登校の少女・京本と知り合い、二人でマンガを描き始める。
すぐに少年マンガ雑誌の賞を受賞し、順調に作品を発表していく二人だったが・・・。
って感じの話。

アニメはそんなに観る方ではないので、アニメとしての評価っていうのは良く分からないけれど、なかなか瑞々しい青春映画だった。
恋愛要素が入らないのも良かった。
1時間弱という上映時間もちょうど良い。

ただ、ちょっと嫌だな、と思ったところが2つ。

1つはラスト近く、藤野が京本の部屋に入るシーン。
良いシーンだと思うのだが、音楽があまりにも情緒的に盛り上がりすぎて少しうんざりしてしまった。

もう1つは、これは映画の内容とは関係ないのだけれど、SNSとかで絶賛の声が多い・・・のは良いとして、「全てのクリエイターが観るべき」とか、「創作活動をした人には必ず刺さるはず」なんていう声を多く見て、若干鼻白んでしまった。

この映画は確かにクリエイターを描いた映画ではあるのだが、別にこの話、クリエイターでなくても成り立つんじゃないだろうか。
たとえば将棋とか、あるいはゲームとか、なにか研究とか・・・、なんなら「けん玉」とかだって成り立つのでは?

クリエイター云々という話がピンと来ないのは、この映画の中では、「何を表現するか」というクリエイターとして肝心のところがほとんど描かれていないから。

創作に対する姿勢、
とか、
創作に向かうモチベーション、
とかは具体的にはっきりと描かれるのだが、「何を描くのか、どう描くのか」という悩みや模索みたいなものは不思議なほど描かれない。
あえて言えば、京本がマンガから離れて美術大学に行くことを選ぶあたりに多少出ているかな、という程度。

まあそういう「表現についての苦悩」みたいなものは観念的になりがちだし、そこらへんを掘り下げて行けば行くほど個別の話に・・・そのクリエイター個人にしか通用しないような話になっていき、一般性はなくなっていってしまう。
だからこの「瑞々しい青春映画」にはそこらへんは必要がなかったのかもしれないけれども。


× × × × × ×


この映画を観た同じ日にもう一本、
「Shirley シャーリイ」(ジョゼフィン・デッカー監督)という映画を観た。

実在した作家シャーリイ・ジャクソンが、ある小説を書く日々を虚実織り交ぜて描いた映画である。
この映画には「表現についての苦悩」みたいなものが描かれていた。
不穏で、いびつで、わかりにくくて、居心地が悪い、でもなんだが後を引くような映画だった。

どっちが良いとかではなくて、ずいぶんと対照的な2本だったなあ、と。

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