高見順『死の淵より』を改めて読む その3
さて不定期連載(笑)も3回目。どんどん書いていこうと思います。
今回はiPad(第二世代のiPad ProにLogicoolのキーボードカバーをつけてカタカタ。)で更新しましたが、最初、returnキーを押しても、「あれ?改行されねぇ!」と焦ったのはここだけの話です。何でだったのだろう、本当にどういうことだ。
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それではいってみましょ〜
1-6 死の扉
たったこれだけ。たった1行で仕上げています。
もはやここまでくると、短歌や俳句の趣。でも、私たちはこういう短いセンテンスでも情景や詩情を感じることができる。日本語っていいね(こなみ)。
「枝折戸」がなぜか開いている。情景をイメージするのに与えられている情報は「枝折戸」と「草がぼうぼう」と、そこから「屍臭」がするということだけ。
まずは「草がぼうぼう」をどう考えるかですが、僕は2つの様子をイメージをしました。
1つめ。鬱蒼としていて枝折戸の周りが不気味になっている様子です。これはこの後の「屍臭」の雰囲気に引きずられていますね。
2つめ。「屍臭」で表現される死のイメージの反対である生の様子です。草が繁茂しているけれども、その奥底で死の臭いがする。
初読のときは、1つめのイメージが強かったのですが、後になってみると「あれ、2つめの方もいいんじゃないか?」と思うようになりました。というのも、「死者の爪」と同じ構成ではないかと思ったからです。そこでも「死者の爪」と生命力のある「蔦」が登場しています。生と死は表裏一体などとはよく言うものですが、その表現なのではないかと。まさに死の淵に立たされた人間から見える生死の両義性が表現されていると感じます。
また、文体というか表現面では、短く事実だけを述べるところと、「屍臭がする」の前に設けられた空白が何とも言えない味を出しています。この作品の前までは、詩の語り手が自己を相対化しながらあれこれと語っていたのに対して、ここでは自分の内側については語っていません。
以前の記事でも書いた通り、高見の小説といえば「饒舌体」なのです。語り手が喋る喋る。特に、晩年の作品「いやな感じ」(リンク先は青空文庫)は面白かったですよ。一方こちらは言葉を控えている。「黙るのも表現なのだ」ということをしみじみと感じさせられました。
1-7 泣きわめけ
直球。血だらけのガーゼに切なくなっているのでしょうが、ここは自己相対化の高見、擬人化したガーゼと「私の心」を並列させてます。
ちなみに、膿盆ってのはこういうやつです。
ところで、これを書いているとき、なぜだか鼻血が出てきました。怖い。シンクロ率どうなってんの。泣きわめけ、私の心よ。
次回予告
ということで今回は短めでここまで。
なぜかというと、次の作品から「赤い風景画」と銘打たれた作品が続くからです。
キリがいいところということで。
ではでは。
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